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3ことも考えられます。建立年の古い草木塔の中には、湯殿山という銘を刻んだ塔(碑)と並んでいるものが幾つかあります。湯殿山は山形県庄内地方にひろがる出羽三山(月山・羽黒山・湯殿山)の一つで、周辺に住む人々にとっては、先祖の霊が坐す山であり、同時に山の神、田の神、海の神が坐す山岳信仰の対象です。山全体が修験者(僧侶や山伏)の道場でもあります。 出羽三山の修験者は、生活を支えるために村に入り、信仰を通して村の人々と交流し、村を支える役割を担ってきました。塩地平の草木塔より約2週間後(安永9年8月1日)に建立された米沢市大字口田沢大明神沢の塔には「一佛成道観見法界草木国土悉皆成佛」という経文と共に、塔の建立者を表す「講中口田沢村」という文字が刻んであります。僧侶や山伏の勧めと指導を受けた、山仕事を生業とする村人が中心となって草木塔の建立が始まった、とする説の拠り所です。現在でも、自然の厳しさを恐れ、自然との共生を願望する素朴な庶民信仰の象徴として、回向や供養が行われている草木塔が田沢地区に残っております。 以上、先人の調査・研究資料等から草木塔建立の背景をいくつか探ってみました。草木塔を建立した人々の意図については、この他さまざまな説が有ります。諸説を混合、撹拌、抽出してみました。建立を思い立った大きな背景として、山仕事に従事する人びとの安全祈願と、自然界の万物に宿る神々に祈りを捧げる日本人固有の気質を挙げることができます。樹木の伐採や搬送時における作業の安全を祈願する心と、採取した草木の魂を鎮魂・供養し、山の恵に感謝する心などが重なって、僧侶や山伏の教えを受けた村の人々が中心となり、山仕事の拠点に塔の建立を思い立ったのではないでしょうか。最近の草木塔 塩地平の草木塔が建立されてから約230年の時が流れ、豊かで便利な社会の到来は、環境破壊や大気の汚染、水質の汚染、土壌の汚染を引き起こしてしまいました。温暖化に代表されるような地球規模の環境問題です。環境問題に社会的関心が向けられるようになった1980年代以降、草木塔は環境問題を啓発する塔として建立されるものが多くなりました。若い世代に命の大切さを教え・伝える塔としての役割を担っているものもあります。日々、草木の命を絶つ仕事を生業としている庭師、草木染め、華道等に携わる人達が、草木に感謝しその霊を供養するために建立した塔が増加しています。林業、石工、僧侶、建設業等を営む方で、個人で草木塔を建立し、学校などに寄贈する例も増えてきました。建立の場所も寺院の境内、森林公園、運動公園、学校の校庭、公共施設や会社の緑地コーナー、個人の敷地内など、多様な広がりを見るようになりました。 1990年、大阪で「国際花と緑の博覧会」が開催され、山形県のコーナーに飯豊町の草木塔が搬入・展示されたことは、県内外に「草木塔」を紹介する大きな契機になりました。ヒトの命さえ軽んじられるほど荒んでしまった現在の社会は、今一度、自然と共生する「草木塔の心」を取り戻すことが必要なことを伝えてくれたからです。草木塔を世に紹介した人物と参考資料 山形県の石造物文化遺産である草木塔の存在が知られるようになり、その建立数が増加した背景には、山形県内の郷土史研究家、民俗学者、宗教学者等による草木塔の調査・研究や啓発活動が大きな役割を果たしてきました。 最初に、草木塔の調査を行ったのは、佐藤忠藏氏(米沢市門東町、若柳流の舞踊の師匠)で、昭和27年から置賜地方の草木塔の調査を開始しました。全国の山を見て回っている営林署長さんから、地域文化遺産としての価値を指摘され、調査を思い立ったとのことです。佐藤氏は、昭和41年「置賜文化第8号(置賜史談会)」に「草木供養塔」と題して、36基の草木塔の所在を報告しています。 結城嘉美氏が佐藤忠藏氏の資料と協力を得て草木塔の調査を始めたのは昭和45年のことです。結城氏は所在地の再確認と関連する資料をまとめることが急務であることを痛感しました。昭和46年に山形県立博物館長に転じ、博物館の調査業務の一部として草木塔の調査と資料の整理を本格的に開始しました。その成果は、昭和58年に実施された再調査と併せて「山形県立博物館報告書第5号(昭和59年3月)」に「草木塔の調査報告書」として結実しました。 出羽三山の修験道研究の泰斗である戸川安章氏は、「民俗

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