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9山形寺町の形成現物が所蔵されております。 これを模写した藤原守春は松平忠弘が城主の時代であった17世紀半の山形藩の絵師です。原図は最上氏が改易される際の元和8(1622)年8月頃に作成されて、幕府や新城主鳥居忠政との事務引き継ぎのために使用された絵図と考えられています(3)。 まず、注目されるのは、馬見ヶ崎川が旧県庁のあたりを東西に流れていた点です。河道が双月・印役・落合方面に変更されたのは寛永元(1624)年8月のことでした(4)。 一般に、「○○城」と聞くと、天守閣を思い起こすかもしれませんが、図を見ると山形城にはなく、濠と土塁・(石垣)に囲まれていたのです。山形城といえば、霞城公園を思い浮かべるかもしれませんが、最上時代、そこは山形城のほんの一部にすぎず、本丸という、いわゆる城主の屋敷と、二の丸という世継ぎと重鎮の屋敷からなっていたのです。さらに最上時代には、本丸・二の丸と同心円上に「三の丸」があり、上・中級家臣の屋敷が連なっていました。 最上時代の本丸は東西160m、南北160m、およそ7千坪の広さでした。二の丸には5つの出入り門があり、東西396m、南北427m、およそ51,800坪の広さ(東京ド-ムの6倍以上)であったといわれています。三の丸は11の出入り門があり、最近の図上計測では東西1,580m、南北2,090m(2,350,000㎡)という(5)広大さで、平城としてはかなりの規模です。三の丸の濠と土塁は、明治維新まで現存しましたが、街の発展と共に払い下げられました。現在土塁跡は、山交ビル角バス停のところ(歌懸神社の西側)などに残っており、見ることができます。 現在の山形城(霞城公園)は二の丸まで現存していますが、これは最上家改易後に入封した鳥居忠政の縄張りによるものです。大幅な変更はなされませんでしたが、現在では最上時代の縄張りを見ることはできません。しかし山形城の原型は最上時代に確立されたといってよいでしょう。北日本では江戸城に次ぐ広さです。三の丸までが、濠と土塁に囲まれていました。そして、その東側に町衆が、さらにその外側を守る形で下級武士の屋敷が並んでいました。 当時の寺町は、現在の七日町3,4丁目から緑町に続く通りに面した

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