習うから学ぶへ
芸術を学ぶ学生にとって重要なことはテーマやモチーフと出会うことである。
私の専門は絵画(日本画)制作だが、専門分野の指導に加えここ数年、美術科の学生を連れて縄文遺跡の発掘調査に参加している。
科学を持たない縄文人は、我々よりももっと円滑に自然と共存していたか、もしくは周囲の環境や動物を脅威として畏れ挑んでいたのだろうか。
現代人には解明するすべはないが、確かなことは、彼らが今日でいうところのアートを用いて、自然と共に生きる術を見出してきたということである。
我々の感性の源流を知るヒントは、実用性を越えた縄文時代の人々のアーティスティックな行為である遺物の中に秘められている。
私を含め専門外の学生たちは発掘のセオリーと手順、その意義のレクチャーを受け、夏の最も暑い時期に現場に繰り出した。
現場では考古学を専門とする教員や学生たちから手ほどきと指示を受けながら発掘作業を進めた。発掘作業初心者にとって先史時代の遺物を自分の眼と手で発見する体験は、
それだけで歓喜の感情が生まれてくる。この時点までは学生たちにとって、習う(learn)という受動的立場である。
この体験を重ねるうち誰しもに好奇心が湧き起こり、「これは何なのだろう・・・。」「何に使う物なのだろう・・・。」
「いつ頃からあるものなのだろう・・・。」といったことを様々な角度から考察(study)する能動的学習の姿勢が芽生えていった。
つまり、彼らの姿勢が自然と、「習う」から「学ぶ」に移行していったのである。
本来の大学教育は、研究能力・教育能力の開発を教学システムの中で行うことに他ならない。
我々の実践した学際的な課外活動は、体験という行為から新たなクリエイティビティが生まれる事が認知された。
発掘は縄文文化の奥義を知る一歩となるが、縄文の姿はその殆どが未知のものである。一万年前の過去に想いを馳せること、それは今後も現在を見据えて、
未来の計画を立てるという実証的なアプローチを立てねばならない。実証的に考察することによって、歴史の繋がりと、文化の在り様を認識することになる。
現代社会の不確実性が増す中、大学で学ぶ学生たちが各々の未来像を逞しく描くためには「習う」ではなく「学ぶ」へと意識の変化を起こさせる必要がある。
大学内の講義設計だけでは加速する社会変化に対応できないだろう。バーチャルな体験が当たり前となってしまった現代だからこそ、
学外に出て実践的な活動を通して地域社会と関わり刺激を受けることで、学生の中に意識の展開が促されるのではないかと考える。