2023年度に八戸学院大学に着任して以来、それまで非常勤講師として母校で働いていた期間も含めてほとんど関心のなかったFD活動に関わることとなった。この性向は、2024年度にFD委員会の責任者となってからもあまり変わっていない。
かつて私の恩師の一人は、授業中に「自分なりに授業の工夫はしているつもりなんだ」と述べて、受講生を驚かせたことがあった。恩師は、旧約聖書学の泰斗だったが、彼の授業は、眠い。ただひたすらに眠かった。
その恩師の良い影響を受けた私は恩師と同じ研究分野に進み、ほとんど同じ古典的な授業スタイルを取り続けるほど悪い影響を受けた。母校で5年間非常勤講師を務め、その後、今の本務校に移ってからもそれは変えようがない。ただ、非常勤講師時代に語りのスタイルを自分なりに確立できたことは大きい。語りの「間」と緩急によって、ある程度は学生の注意を惹き続けることができる。物語を物語るような説明は人の心を動かすようである。
とはいえ、分野によって、あるいは受講生数などに応じて、様々な授業実践がある。教養科目と専門科目とでも大きく違う。学生からの見え方も異なる。より良い授業づくりを支援するために求められるFD活動もまた多岐にわたる。何をどうしたらいいのだろう。
そのようなことを考えているうちに、大学の規模や個性に応じて、それぞれの大学にふさわしいFD活動があるはずだと感じはじめた。先進事例や大規模校の実践を取り入れるだけでは、個々具体的な授業改善には単純には至らないのではないか。授業アンケートはFD活動の王道だが、一人ひとりの教員が研究室で授業アンケートと孤独に向き合っていても、早晩限界が来る。ちなみに本務校における授業アンケートの結果は平均値だけ見ても極めて高い。どのような授業においても高水準の学生満足度を見て取ることができる。ところが、果たして学生を幸せにしてあげられているのかどうか、不安は尽きない。
こう述べるのは大胆かもしれないが、個々の授業を改善するだけでは大学全体は良くならないのだ。大学は授業や諸学問の寄せ集めではなく、一つの全体ではないか。大学を、universitas「全体」という語源にさかのぼって考えるべきだ。大学は、教師と学生の共同体だったはずなのだ。
幸い、私の本務校は小規模で、教員同士、教員と事務職員、教員と学生が学生食堂で一緒に昼食をとれるような環境である。そのような雰囲気、大学の個性はFD活動にもいかせる気がする。本務校では、一年次から演習ゼミがあり、全学教員が各学年学生5名程度ずつ受け持ち、同時にカレッジアドバイザーとして関わっている。
たとえば、単純に授業アンケートを行うのではなく、常日頃からゼミ学生から意見を募ることができればよりダイナミックで双方向性のある授業改善活動になりうる。教員同士でもいい。授業改善は大学の課題ではないか。個人に押し付けるべきではない。
教員相互の授業参観も、より良い授業実践を学び取るだけでなく、自分の学生の受講態度も見れたら良いだろう。
FD研修会にしても学生のニーズにこたえる内容を模索しても良い。若者に媚びるつもりは一切ないが、学生たちからどう見られているかを考えられなくなったらおしまいだとは思う。
このようなことを考える教員が少しでも増えたら良いと思う。そのような教員の弟子たち、次の世代の大学教員には、FD活動にはじめから強い関心を持つ人々が増えるにちがいない。
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