筆者は臨床心理士として、病院等で学校や社会の適応に悩む子どもや成人と長く接してきた。治療開始前に、心理療法が可能か、どのような配慮が必要かなどのアセスメント(見立て)は行ったが、その後は社会的な評価やこちらの意図する治療目標にクライエントをはめこむより、その方の内発的な表現を大切にしながら、その方が自分の物語を創っていくことを、遊びやカウンセリングを通じて手伝っていくことが常だった。
そのような現場を離れて大学に赴任した時に、最初に感じたことは、大学は評価の場であるということである。入学試験から始まり、学生を授業や実習その他で常に評価する。学生だけでなく、教員も業績を大学や社会に評価され、授業を学生に評価される。大学自体も自己点検・評価や第三者評価をはじめとして、多くの視点からの評価にさらされる時代になった。目的に応じた評価項目や基準が作成され、それをクリアすることで、学生も教員も大学も社会的に認知されるという発想である。考えてみれば、これは大学内のことだけでなく、社会全体の趨勢であろう。社会がシステム化・グローバル化する中で、対象の評価も同一規格、同一水準で行われ、序列化する傾向が顕著である。
このような評価による可視化の意義は、もちろん否定できない。授業評価においても、数値化され公開されるようになった結果、教員は少なくとも学生が自分の授業をどのように受け止めているかを意識するようになった。しかし、授業評価項目はいったん作成されると固定化し、毎回施行されているうちに、評価結果も想定内におさまるようになることから慣れが生じ、形式的になる傾向がある。
一番大切なことは、常に自己変容を希求する教員の内発的な欲求であり、それを動機づけるものは、教員と学生、あるいは教員間の授業に関する持続的な会話であろう。また、実際に自らの授業を他教員に公開するとともに、多くの教員の授業を参観し、それに基づいた意見交換を行うことで、授業は大きく改善されると感じる。人は、人との相互作用がなければ変化しづらい存在ではなかろうか。