ある日、ゼミで人間と動物に関する論文を講読した。
スーパーで肉を買う。新鮮な肉色、脂ののった肉、霜降りの肉……、食材として美味しくて、最高の肉をわれわれが選ぶ。その肉は部位別に小分けされ、パックに詰められている。骨も皮も取り除いた「肉片の物体」を目にしたとき、その本来の姿、つまり生きた牛や豚や鶏の姿を思い描くことはほとんどないだろう。学生たちは、自分たちの日常生活と照らし合わせながら、「生きもの」と「肉」との間にある感覚的な乖離に気付いた。
食べるには動物を殺さないといけない。この屠殺という行為が現代社会の中ではブラックボックスのように秘められている。なぜだろうか。本来、人間と動物の間には、捕食と被食という単純な、しかしもっと根底的な関係性を認めることが出来たはずだった。しかし、現代のわれわれは、肉食と言えば「肉」としての完成品を手に入れることから始まる。そして動物との関係性と言えば、ペットや動物園などを通して、別の文脈において育まれる。そこで、動物を殺すことから食べることまでを一連の連続として実感することのなかに、ある種の残虐性を見出すような倒錯が生まれる。と、学生たちが活発な議論を行った。
私たちは肉食という行為の全体像を見失ったまま、そこから目を背けることが許され、分断された社会のもとで生き続けている。日々肉食を享受し、美味しい肉に舌を打つ自分、背後にある背景を何も知らずにいることへの罪悪感も学生たちは覚えた。
そして、教育現場を中心に「食育」の一環として屠殺、解体を実施する動きにも、学生たちは疑問を感じた。肉食という営みの中で、屠殺という場面だけを抜き取ること、各過程を分断して考えるという思考のあり方そのものが、われわれに纏わりつく現代的な思考の産物ではないだろうか、と自省の念に駆られた。
この文献講読では、人間と動物たちとの関わりについて、深いところでいろいろ考えさせられた。