教員としての職務のなかで私が一番嫌いな作業は成績評価である。どの授業においてもできるだけ客観的な評価になるよう心がけているが、神様ではない人間が同じ人間を客観的に評価することは原理的に不可能である。英文科に所属するアメリカ文学の教員なので、語学と文学の授業を担当しているが、学生の到達度を点数化しやすい語学の授業での評価は比較的容易い。
問題なのは文学の授業における評価である。文学作品の解釈には正解がないので、学生全員の回答が正解である。その意味では全員に100点満点をつけるべきなのだが、授業参加への意欲がそれぞれに異なる学生らを全く区別しないままでは、教師として怠慢の誹りを免れないだろう。従って、文学の授業でも毎回確認テストを実施し、プレゼンテーションや期末レポートなどと組み合わせて成績を評価している。要するに、客観的な評価になじまない授業ほど様々な角度から学生のパフォーマンスを検証し、評価に多くの時間を割いているということだ。
しかし、なぜ我々教員はこれほどまでの苦労をして学生を評価するのであろうか。一番簡単な答えは「学生に単位取得を認めるため」というものだろうが、ではなぜAA, A, B, Cなどとランク分けをする必要があるのだろうか。私の考えでは、ランク分けが必要なのは「学生の質を第三者(社会)に保証するため」なのだ。学生の成績を介して教員が社会と繋がるからこそ、私は評価に多大な労力を割いているのである。
私の授業で高評価を修める学生は地道な作業を人一倍真剣に取り組んできた者である。そして、実社会における労働がこうした地道な作業の連続である以上、大学での学業成績の良い学生ほど、それに耐えていける可能性が高い。従って、アメリカの就職活動では、学業成績のよい学生が優先的に採用されるとのことである。だが、悲しいことに、日本の就職活動で大学での学業成績が考慮されることは未だにほとんどないようだ。
もちろん、企業の採用担当者も試験や面接を何度も行うことで、教員からの評価が高い学生にきちんと内定を出している。かなり多くの場合、教員と採用担当者の学生評価は一致している。だが、それが一致しない事例もそれなりにあるのが気がかりである。アメリカの採用方法が正しい(私はそう信じている)のだとすれば、こういう不一致は日本企業がかけた労力に見合うリターンを得られないことを意味する。それで今後の日本はアメリカに伍していけるのだろうか。
私の望みは大学での学業成績に基づいた採用活動が日本でも行われ、日本が国際社会でのプレゼンスを保ち続けることである。そうした希望があるからこそ、私は成績評価の精度をさらに高めようと、日々授業改善に取り組むのである。