山大マーク 学長室だより
 年頭のあいさつ(平成19年1月4日)

「自然と人間の共生」と「充実した人間教育」の旗を
高らかに掲げ、さらなる発展を

はじめに
 あけましておめでとうございます。
 皆様お揃いで良いお正月をお迎えのこととお喜び申し上げます。
 さて、今年は私の学長としての最後の年になりますので、これまでの私のPresidency を振り返ると共に、今後の山形大学に対する期待を述べることなどを中心にして年頭の挨拶を進めていきたいと思います。
年頭のあいさつ全体

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今こそ大学は社会の進むべき方向を指し示すときだ
 さて、国立大学が法人化される平成16年の年頭の挨拶において、私は、世界の状況や我が国の動きなどを正確に把握した上で、大学の方向を決めていかなければならないということを申し上げました。
 今日、私は同じことをくり返して申し上げたいと思います。
 と言いますのは、私達はいま少子化に伴う激しい大学間競争の直中に置かれており、そのことがいつも念頭から離れず、「大学の本来の存在理由は何か」といった根本問題について考えることを忘れがちになっておりますが、「それで良いのか」ということを申し上げたいわけであります。
 今、世界ではイラク戦争の泥沼化等、紛争は一向に減少する傾向が見られず、また我が国でもワーキングプアの問題や学校におけるいじめの問題など、課題が山積しております。
 大学の役割としては、教育・研究そして社会との連携があげられておりますが、私は第四の役割として「社会の進むべき方向を指し示す」ことをあげたいと思います。
 そもそも、大学の大きな役割としてあげられている教育と研究の最終目標は何かと考えてみますと、教育においては、次代を担う有数の若者を育むことを介して、研究においては、物事の理を明かにすることを介して、いずれも健やかな社会の発展を目指すことが大学の最終目標であると考えられます。いまその社会が健やかな歩みから病める歩みへの変曲点にさしかかっている状況において、大学は教育と研究を介する社会への働きかけだけではなく、声を出して、あるいは筆をとって、直接社会に呼びかけることも必要ではないかと思います。
 知識基盤社会と言われる現代社会における知の拠点である大学こそが、「社会はこうあるべきだ」ということを、しっかりとした理論展開に基づいて、社会に指し示すことが大切ではないでしょうか。
 皆様もご存じのように、我が国において、あるいは世界的にも過去に大学の人たちが世の動きに対し意見を述べ、あるいは警告を発した歴史があり、それが社会改革の導火線となったこともありました。しかし、最近大学は、社会に対してあまりにも受け身的で、私が先にあげた大学の第四の役割としての「社会の進むべき方向を指し示す」ことを行っていないのではないかと思います。
 大学人には、企業で働いている人達には許されていない「自由に物を考える時間を十分に持っている」という、いわばある意味での特権が与えられており、その特権に伴う義務があると思います。私はその義務の一つが先程から説明している「社会の進むべき方向を指し示す」ことだと思っています。それをおこたることは、一つの noblesse oblige を果たしていないということになるのではないでしょうか。
国際社会の動きを読み取る眼が必要である
 さて、1989年にベルリンの壁が破壊され、いわゆる社会主義体制は崩壊するか、あるいは著しい偏曲を強いられることになりました。そのことは、単に、いわゆる東側社会に影響を与えただけではなく、西側社会にも大きな影響を与えることになりました。アメリカを中心とした一極集中型の経済のグローバーリゼーションが起こったことが、その最も大きな影響ですが、その他にも世界的に大きな変化がおき、それが流れとして現在なお続いているものがたくさんあると思われます。
 その一つが福祉の問題です。福祉国家は経済の高度成長に伴って発達していきましたが、一方で、福祉国家は社会主義体制との競争から生まれたという側面も持っていたわけです。つまり、いわゆる社会主義経済においては、富の平等化ということがその理念としてあったわけで、衣食住の公的資金によるサポートが構造的に一応備わっていることになっていました。つまり資本主義体制における福祉は、この社会主義体制の公的資金によるサポートに対抗するためのものとして生まれたという側面もあるということです。
 その後、世界経済は、石油危機、国際金融危機を経て、右肩あがりの高度成長は終焉を迎えることになります。社会主義体制の崩壊も加わり、それに対する対抗措置の必要性もなくなり、福祉国家は大きな転換期を迎えることになります。即ち、それまでは国家が提供者であった社会サービスが、個人の自助努力、市場そしてボランティア活動に取って代わられることになり、国家はそれをやりやすいようにする条件を整える役割に徹するということで、福祉国家ではなく支援国家とよばれるものに変わっていくことになってしまいました(加藤栄一著「現代資本主義と福祉国家」より一部抜粋)。
 現在我が国で始まっている福祉政策の変更も、今お話しした世界的な経済潮流の一つの現れであるということを、私達は理解しなければならないと思います。このように、私たちは、世界状況をよく理解した上で、我が国で起こっていることがらの全体像を把握していかなければならないということを申し上げたいわけです。
子供のいじめの問題は大人の問題である
 さて、最近子供達のいじめなどの教育問題がクローズアップされておりますが、私達は教育に関わっている者として、この問題に真剣に取り組んでいかなければならないと思います。
 マスコミなどでは、学校の先生方だけが批判の対象にされている嫌いがありますが、それでは余りにも表層だけをなぞっている議論になると思います。私事に渡って恐縮ですが、私の友人で、児童養護施設の仕事に携わっている人がおりますが、彼は「最近の入所してくる子供達のほとんどが虐待を受けており、そして子供たちを虐待している親達自身も過去に虐待を受けた経験を持つ人が多く、何か負の連鎖が日本列島を蔽っているのではないか」といっていたことがありました。私は、このような現象に象徴されるような、我が国における基本的なモラルの乱れが、教育問題の根本に横たわっているのではないかと考えております。
 多くの人々も言っているように、学校でのいじめは昔からありました。私も小学校で経験しております。しかし、遠い昔の事をおもいだしてみますと、いじめの状態を元の正常な状態に戻すような力、復元力を子供達は持っていたのだと思います。それは「悪いことをしてはいけない」というモラルを親や先生方から厳しく教え込まれていたからだと思います。
 現在親達はあまり子供を叱りません。子供達が欲しいと言えば何でも与えてしまいます。つまり親達に子供を育む規範が欠けていることに、根本的な問題があると私は思います。
 私が強調したいのは子供達の教育に関する種々の問題は、これ即ち親達を含む大人の問題であり、その解決なしには教育問題は解決しないと言うことです。
 我が国全体のモラルの乱れの原因がどこにあるのかということに関しては、多くの視点からの分析が必要であり、簡単に解答は出てこないと思いますが、人間の物質的な欲望の限りない追求を基本とする社会構造そのものに根本的な要因の一つがあるのではないかと考えております。
世論調査から見えるもの
 さて、昨年5月に行われた読売新聞社の人間関係についての世論調査の結果を見てみると、最近社会全体をみて、人付き合いや人間関係が希薄になりつつあると思う人が79%もおり、その結果として、社会のモラルが低下した(55%)、自己中心的な人が増えた(62%)、地域の繋がりが薄れた(53%)と考えている人たちがたくさんおります。また、人と接して気になることとして、あいさつを出来ない人が増えている(53%)、初対面の人に丁寧な言葉遣いが出来ない人が増えている(47%)などがあげられています。
 要するに、我が国では「人間関係が希薄になり、モラルが低下してきている」ということを多くの国民が気づいているということです。しかし、それをどのように克服していくのかということになると、事はそう簡単ではありません。
 私は「昔はこうではなかった」と復古主義を唱えることは決して解決にはならないと考えております。
 そうではなく、まず戦後60年の我が国の歩んできた道を論理的に検証し、その上に立ってこれからの私達の進んで行くべき道を指し示さなければならないだろうと思います。それは、大変難儀な作業でありますが、21世紀における知の拠点としての大学に課せられた重要課題の一つだと思います。
 山形大学では「自然と人間の共生」を大学のleading conceptとしていますが、この「自然と人間の共生」を、21世紀のnew paradigm として、様々なアプローチを通して広めていくことが解決策の一つではないかと考えておりますが、詳しくは後ほど説明いたします。
学長としての5年半 −その振り返り−
 さて以上、世界的な問題我が国における問題に関する私の考えを述べましたが、それを参照しながら、5年半にわたる私の Presidency を振り返ってみたいと思います。お話する内容を項立てしてみますと、1.国立大学の法人化、2.山形大学の leading concept としての「自然と人間の共生」、3.充実した人間教育、4.PDCAサイクルの実質化ということになります。一つ一つについてどのような結果が得られており、今後どのような展開が期待されるかなどについて説明いたします。
 1) 国立大学の法人化
 a.大学の運営・経営
 国立大学の法人化については、三つの点があげられます。まず第一には、大学の運営と経営の形態についてですが、学長の決定権が非常に強くなり、従来のように、どんな小さな事でも学内の多くの委員会の合意を得る必要があるために、事柄の決定に時間がかかりすぎるという点は、たしかに改善されたと思います。しかし今後の一つの問題点として挙げられるのは、法人化後国立大学では、学長に権力が集中しすぎているのではないかということです。私立大学では経営と教学は分離されており、経営のトップは理事長で教学のトップは学長ですが、現在の国立大学の学長は、私立大学の理事長と学長の権限を併せ持っています。また、学長に対する牽制機構としては、文部科学大臣に任命された監事があたることになっていますが、実質的に十分に機能する状況にあるかどうかの検証が、必要だと思われます。
 また、大学の経営については、大学の外部からの委員も含めた経営協議会で審議が行われております。大学の経営に大学の外部の方が参加するということは、大学の社会に対する説明責任を果たすという意味からは意義のあることだと思います。しかし、日常的に大学の業務に携わっていない方々に膨大な量の資料を送って、その内容を解読する事を要求するようなシステムが、本当に大学の経営を最終的に審議するものであっていいのかなど、今後の検討が必要であろうと思います。
 b.大学への評価の導入
 法人化に伴って改変された、次の大きなポイントは、外部評価を中心とする評価が国立大学に導入されたことであります。これは大学の運営の改変と同様に、大学にとっては大変大きな出来事であったと思います。  やはり評価のないところでは、組織とその中にいる人間は変わっていかないのだと思います。後で詳しく話しますが、企画を立てて、それに基づいて実行し、それが評価され、その評価に基づいて改善が行われるという Plan-Do-Check-Action 、PDCA サイクルが上首尾に廻っていくことが組織改革には必須であり、そのPDCAサイクルの最重要のポイントとして check つまり評価が位置づけられるのだと思います。  山形大学では種々の評価機能が大学の改革の有効な武器として働きはじめていることは、喜ばしいことだと思っています。  一方、文部科学省に設置された国立大学評価委員会による評価について言えば、各年度の年度実施報告書を提出するに至る過程に費やす労力は膨大なもので、現状では、まさに「評価疲れ」に陥ってしまうのではないかと思います。今後是非、報告書への記入を簡略化するなどの改良を加えてもらいたいと思います。このままの状態で法人評価が続けられるとすれば、大学のランク付けのためには役立つでしょうが、大学自らがその評価を改革への足がかりとする、本来の評価の意義は著しく減じてしまうのではないかと思います。
c.財政問題
 法人化の第三の問題点は大学の財政の問題です。効率化係数として、運営管理費の対応分の1%(平成19年度予算では1%を超す様です。)、附属病院の経営改善係数として対応分の2%が毎年予算から削減されるということは、大学の運営にとって大変なことです。この他にも、従来特別に措置されていた項目で法人化に伴って中止されてしまったものもあります。 また教職員の人件費削減が5年で5%課されておることも考えると、厳しい財政改革を行わないと、大学経営は成り立ちいかないことになります。
 国立大学の法人化が国の財政構造改革の一端であるとすれば、国の厳しい財政状況を考えると、国立大学だけが聖域であることを主張することは出来ないと思います。痛みを共に分かちあうということは必要なことだと思いますが、国立大学に対する現在のあるいはより厳しい予算措置がこのまま続いていくとすれば10年後、20年後には想像も出来ない状況になっていることもあり得るだろうと思います。
 山形大学では、中・長期の財務計画がキッチリと立てられており、また幸いにも現状においては附属病院の経営状態は極めて良好であり、大学の経営は健全な状態を保っております。しかし、附属病院では再開発が始まっており、間もなく借入金の償還時期に差しかかりますと予断は許されない状態になると思います。
 安倍内閣は教育再生を最重要課題と位置付けておりますので、高等教育の重要な環としての国立大学への財政援助も今後増やしていただくことを期待しております。
 2)「自然と人間の共生」の実質化
 私の presidency の次の重要項目としては、山形大学の leading concept としての「自然と人間の共生」の実質化が挙げられます。
 先程述べたように、我が国のモラルの乱れは、物質的な欲望に基づく競争原理を旨とする社会の末期的症状と見ることも出来ます。いま世界は、この競争原理を超える21世紀の new paradigm を求めております。そのような状況下で、山形大学が leading concept として掲げる「自然と人間の共生」という理念は、十分に21世紀の paradigmの一つになり得るのではないかと思います。
「日本よ 森の文化国家たれ」の著者、安田喜憲氏の言葉を借りるまでもなく、農耕民族として、自然との調和の中に文明を創造してきた我が国こそが、この new paradigm の発信者となるべきであります。
 そして山形は草や木の命をもいとおしんで草木塔を建立した地であり、「自然と人間の共生」の旗を高らかに掲げるにふさわしい土地であります。
 私は学長として行わなければならない最重要事項としてこの「自然と人間の共生」の実質化に努めてまいりました。
 a.「自然と人間の共生」の実質化の種々の試み

図1

図2

 まず第一の試みとして、「自然と人間の共生」の分野の第一線で活躍している方々のリレー講義を開催しました(図1)。この講義録は、まもなく一冊の本として出版される予定であります。
 次には、学生諸君に「自然と人間の共生」について考えてもらうことを目的として、三年前から、有機農業の発祥の地である置賜地方の高畠町で学生諸君と一緒になって有機農業を体験し、その先達から講義を受ける、『有機農業の現場で「自然と人間の共生」を考える』教養教育の講義を学長主催で開催してきました(図2)。
 また草木塔は、山形の歴史資産として重要であるばかりでなく、「自然と人間の共生」の理念のシンボルですが、その全体像については、また不明の部分が多く残されています。そこで、草木塔の在野の研究者達に集まっていただき、シンポジウム「草木塔の心を求めて」を開催いたしました。シンポジストの皆様の情熱的なプレゼンテーションに加えて、悪天候にもかかわらず、たくさん集まった聴衆の熱気はすごく、山形の地における草木塔に対する関心の深さを示すものでした(図3)。現在シンポジウムの記録をまとめております。
 b.「草木塔ネットワークの設立と調査・研究・利用の推進」プロジェクト

図3

図4

 さて、学長としての「自然と人間の共生」の実質化の最後の仕事として、「自然と人間の共生」に関するプロジェクトを全世界から公募致しました。海外からの11件を含めて83件の応募があり、山形大学が1000万円を限度としてその事業を実施する学長賞には、山形大学環境保全センター土橋睦夫さんの「草木塔ネットワークの設立と調査・研究・利用の推進」が選ばれました(図4)。審査委員会には、山形大学関係者は全く入っていない状態での審査でしたが、嬉しいことに山形大学の教員が学長賞に選ばれましたし、また受賞したプロジェクトのタイトルが草木塔に関するものでした。草木塔はまさに山形大学の leading concept「自然と人間の共生」のシンボルともいえる存在であり、草木塔のことに関わりを持ち続けていくことは、山形大学の存在を世に問う大きな力になると思います。
 現在、受賞した土橋先生を中心にプロジェクトを実施し始めております。草木塔に興味を抱くすべての人々による「やまがた草木塔ネットワーク」を作り、ネットワークに参加した人々の手によって、今後の草木塔プロジェクトを展開することが本プロジェクトの中心となります。
 それでは、現在行おうとしている草木塔プロジェクトのいくつかを御紹介いたします。
 最初の事業としては、藤巻光司氏が長年にわたって草木塔が建立されている現地に赴いて撮影した草木塔の写真と拓本を記録として残すことに着手いたしました。また、出来れば記録集の英語版も作りたいと考えております。
 また、草木塔に関する記録は、それぞれ個別的なもので、まだまとまったものにはなっていませんので、関係者が記録を持ち寄って、先日の草木塔のシンポジウムの記録と合わせて、一冊の本を作ることにいたします。
 米沢市塩地平にある最古の草木塔は破損が進んでいます。貴重な山形の遺産を保存する義務が、私たちにはあると思います。関係者の協力を得て、これを修復する作業にかかりたいと思います。
 また、草木塔のことを広く世に知らしめるためには、「草木塔」という言葉を辞書に登録することも大切であると思いますので、そのための努力をしていきたいと考えております。
 一方、草や木の命をもいとおしむという草木塔の精神は、「自然と人間の共生」という考え方の上に成立する21世紀のnew paradigmに重要な位置を占めると考えられます。将来を担う若者達に草木塔の精神を教えることは有意義なことだと思います。関係者と相談した上で、草木塔を初等・中等教育、大学の教育に生かしていきたいと思います。
 現在山形県は、最上川・出羽三山を中心にした世界遺産を申請しておりますが、山形県内の草木塔は、ほとんど最上川流域に建立されていることから、この草木塔を世界遺産の一つの項目として取りあげてもらうことを試みていこうと思っております。
 いずれにしても、草木塔をひとつのシンボルとして「自然と人間の共生」を21世紀のnew paradigm として世界に広めていくことが、話の冒頭で私が大学の第四の役割としてあげた「社会の進むべき方向を指し示す」ための山形大学の使命であると、私は確信しております。
 3)「充実した人間教育」の実質化
 a.教養教育の意義
 さて、つぎは山形大学の第二の理念である「充実した人間教育」について話を致します。
 昨今、我が国では、大学教育における教養教育の重要性が再度論じられはじめております。大学の教養部が廃止されたあと、教養教育は、各大学においてそれぞれ違った形で展開されてきたわけですが、ここに来て教養教育の重要性が叫ばれるようになった理由の一つは、大学卒業生のおもな就職先である企業側からの要請があげられると思います。つまり、最近の大学卒業生は企業に就職しても、基本的な物の考え方、つまり、物事を解決していくためのdisciplineを会得していないために使いものにならないのだという声をよく聞きます。そして、それに引き続き「旧制高校はよかった」という大合唱になり、実際に全寮制の大学を作ろうとしたりするわけです。教養教育で、「知の技法」つまり、専門科目を理解するための基礎をしっかり教えなければならないということ、それが旧制高校では上首尾に行われていたということには同意しますが、「旧制高校へ帰れ」という精神論はanachronismだと思います。
 「旧制高校へ帰れ」ではなくて、ここはじっくり腰をすえて、教養教育の本質論を展開しなければならないと思います。私は、教養教育は二つの部分から成り立っていると思います。一つ目は、専門科目を学ぶための「知の技法」であり、語学やIT教育が含まれます。
 二つ目は、物の考え方を学ぶいわゆる人間教育だと思います。人間教育と言うと、人間性豊かな人間の育成とか、倫理性のしっかりした人間の教育などに限定して考えてしまいがちですが、それだけでなく、社会の中で生活していく上で必要な物の考え方、物事を進めていく方法論やキャリア教育など広い範囲にわたる教育が含まれていると思います。
 b.「エリアキャンパスもがみ」の実地体験型授業「共生の森もがみ」

図5

図6

 山形大学では「充実した人間教育」を大学の理念の一つに掲げており、種々の試みがなされていますが、今日ここでは、「エリアキャンパスもがみ」におけるフィールドワーク「共生の森もがみ」について話をします。「エリアキャンパスもがみ」は最上地域全体を大学のキャンパスと見立てた構想に基づく新しい試みであり、全国的にも注目され始めております。
 キャンパスが設置された平成17年度は、おもにイベント的事業を行いましたが、平成18年度からは最上で学生の授業を実際に展開する事業が開始されました。これがフィールドワーク「共生の森もがみ」であります。
 最上地域には、各地区で活発な地域活性化の活動をしている方々がたくさんいらっしゃいます。学生諸君は、各地区に出かけていって、実践活動に参加し、地域活性化を行っている人々の授業を受けます。
 最上地域の戸沢村は、小中学校の教育に村の人達が参加するという、全国的にも注目される教育を展開している村ですが、(図5)は戸沢村に学生が出かけていって宿泊して食事をしている写真です。
 (図6)は、以前から戸沢村の教育に参画している地域教育文化学部の江間先生と村の教育関係者の討論に学生達が加わっているところです。先日参加した学生諸君のレポートを読ませてもらいましたが、住民も一体となった戸沢村の教育を体験することによって、色々なことを考えるきっかけをつかんだのではないかと思います。
 今日の話の前半部分でも触れたように、現在我が国では子供達のいじめによると思われる自殺が多発するなど、子供達の心の闇は深いものがあります。今説明したようにcommunity全体で子供の教育を行っているこの戸沢村の教育の中に、子供達をこうした闇から救い出すための原点を見いだすことができるのではないかと私は思います。学生諸君が、豊かな自然の中で心優しい人々に触れ、そこで地域の人達から色々学ぶことは、山形大学が掲げる理念の一つ「充実した人間教育」のprototypeの一つだと思います。
 山形大学が「エリアキャンパスもがみ」で展開している実地体験型授業を中心とする「充実した人間教育」を行っていくことは、今我が国の目標の一つとされている「教育再生」につながっていく教育モデルの一つを作ることだと私は思います。今後このような試みをさらに発展させることにより、「人間教育の山形大学」と言われる大学に成長していって欲しいものだと考えております。
 4) PDCAサイクルの実質化

図7

 それでは最後に、私が学長として大学の運営と経営に関して最も力を入れてきたPlan-Do-Check-Action(PDCA)サイクルの実質化について説明致します。
 国立大学の法人化に伴う最も大きな改変の一つは、評価の導入であることは先程も申し上げました。その最大のものは、文科省に設けられた国立大学評価委員会による法人評価であります。中期目標・中期計画としてプランを立て、それに基づいて実施し、その結果を報告し、評価委員会がそれを評価し、大学はそれに基づいて改善を行うというサイクルが繰り返されることになります。重要なポイントは、このサイクルは閉じていてはいけないということであります。つまり、長期的な視点から眺めたとき、閉じた環(サイクル)が縦列状態で不連続に並んでいるのではなくて、各々の環は繋がっていなければならないということです。法人評価の場合は、6年間という一定の期間に区切った計画であり、評価ですから、環は螺旋形にはならず、評価から次の計画へとジャンプする閉じていない輪の連続となります。また、改善の結果を見極めてから次の計画に移るという時間的な余裕はなく、改善から次の中期計画への連続性を見つけることは困難で、むしろ改善結果は次の次の中期計画に生かされることになると思います。
 中期計画における開かれたサイクルの形状は、図に示したようになめらかなスパイラルではありませんが、日常的に行われる一般的な改善運動の軌跡はスパイラル状で、その軌跡は時に結合したり、また分離したりする複雑なものです。俯瞰すれば、それは大きなスパイラル状に見えるということになります(図7)。
 私は、以上説明したPDCAサイクルの実質化が、評価を大学の運営経営に生かす本筋であると考え、国立大学法人評価委員会による法人評価の他に、監事監査結果、学生生活実態調査、教育効果・広報に関するアンケート調査の結果に基づいた業務の改善計画を立てました。そして、その計画に基づいて行った改善の現在における状況と、今後さらに改善の必要な課題をとりまとめ、昨年12月、山形大学ホームページに公表いたしました。
 現在、係長全員に対して行ったヒアリングから挙げられた改善課題についても、同様の取り組みをしているところであります。
 以上の改善運動の重要な点の一つは、改善に必要な経費は、必要に応じてこれを予算化する事で、これは改善運動に携わる人々の、インセンティヴとしても大事なことのように思います。
 山形大学発、大学改善運動の一つとして、今後も、PDCAサイクルの実質化を是非、発展させていって欲しいものだと考えております。
おわりに
 以上縷々述べて参りましたが、話を終わる前に、この5年半の間に、私の不徳と致すところから反省しなければならないこともたくさんあったことを申し上げなければなりません。想い起こしますと、私が学長に就任したのは前学長が入試ミスのことで引責辞任したことにともなうものでありました。入試ミス問題の処理は、工学部を中心とする全学の皆さんの努力、文部科学省の御配慮などにより、ほぼ解決に到りましたが、時を経ずして教育学部の統合問題が起こりまして、20万人の署名簿が学長室に届けられたのはつい先日のような気がいたします。また、セクシャルハラスメントの問題は、学内での大きな運動にまでふくれ上がり、その解決に長時間を要したことも記憶に新しいところであります。
 以上色々な問題について多くの皆様に御心配をかけましたこと、この場をかりておわび申し上げたいと思います。
 幸いにも、皆様の御努力により、全国大学ランキング24位を獲得するなど、山形大学はいま登り調子であります。私も残された8ヶ月の任期を力いっぱい頑張ってやっていきたいと思いますので、皆様の御協力を心からお願い申し上げます。「自然と人間の共生」と「充実した人間教育」の旗を高らかに掲げ、山形大学がさらなる発展をとげていくことを期待し、私の年頭の挨拶を終わります。