山大マーク 学長室だより
 告 辞(平成18年3月24日学位授与式)

 長く厳しかった冬も終わりを告げ、春の息吹が感じられる今日この頃ですが、その暖かさに迎えられるように、いま社会に飛び立っていこうとしている学士の学位を得られた919名の学生諸君、修士の学位を得られた141名の学生諸君、博士の学位を得られた33名の学生諸君、養護教諭特別別科の40名の学生諸君卒業本当におめでとう。山形大学を代表して、諸君の卒業を心からお祝いいたします。また、御列席の保護者の皆様、無事お子様が大学を卒業されること、誠におめでとうございます。どんなにかこの日をお待ちだったことでございましょう。お子様を社会に送り出すに到った、今日この日までの長い月日のことを考えますと、お喜びもいかばかりかと拝察申し上げる次第であります。

 さて、学長に就任以来、私にとって今回が5回目の卒業式となりますが、卒業生諸君を社会に送り出すはなむけの言葉について、この度程思い悩んだことはありません。と申しますのも、世界全体を見ても、我が国の状況を眺めても、今この時ほど、社会が揺れ動き、それに伴って人の心が揺れ動いているときは、過去に経験したことが無かったと思うからです。古えの人の、どんな美しい言葉で諸君を送り出したとしても、それが、将来の諸君の人生に本当に役に立つのだろうかと思うとき、私の口は自然と重くなってしまいます。

 そこで、今日の話では、美しい言葉で諸君を鼓舞することは止めて、今日の世界や我が国の現状について、私が日頃考えていることを披露し、「これから諸君が社会人として生きていくための物の考え方の参考にしてください」という気持ちで話を進めていくことにいたします。

 卒業生諸君もよく知っているように、1989年まさにハンマーでベルリンの壁が壊されたことに象徴されるように、20世紀の最後のときに、いわゆる社会主義体制の基本的構造は崩壊しました。そのとき人々は「自由を抑圧する独裁体制のもとでは、社会は発展していかないのだ」ということを、口々に語りました。最近では、中国においても政治体制は中国共産党を頂点とするピラミッド型の構造を維持しておりますが、経済は、自由競争のもとに置かれ、その結果、中国のGNPはこの間飛躍的に伸びてきております。我が国においても「構造改革」や「規制緩和」が叫ばれて、自由競争がますます激しくなってきております。政府が一定の規制を設けて、ある規格に基づいた同じ製品を大量に製産することによって世界を制するといった、いわゆる「護送船団方式」といわれる時代は終わりを告げ、いかに個性的なものを世に出すかということが問題にされる社会、堺屋太一氏の言葉で言えば、知識に価値を見出す社会、いわゆる知価社会、最近の政府の論調などでよく使われている言葉で言えば、知識に基盤を置く社会、いわゆる知識基盤社会に入ってきたことは事実で、そうした社会を発展させるためには、これらの「構造改革」や「規制緩和」は必要なことだと思います。

 しかし、そうしたいわゆる自由競争の結果、社会に到来したものは何だと諸君は思いますか?

 さて、最近の我が国の出来事を語る上で、ライブドアの事件を除いて、それを語ることは出来ないと思います。多くの報道では堀江元社長をはじめライブドアの元幹部達がいかにして破局に到る道をたどっていったかという、ライブドア個別の問題として取り扱われております。この事件は、現在、法の手に委ねられており、断定的な発言は慎まなければなりませんが、私には今回の問題はライブドアに限ったことであるとはどうしても考えられないのです。最近、アメリカのロジャー・ローウェンスタインという方が書いた「なぜ資本主義は暴走するのか」という本を読みました。その本の中には、短い期間に巨大な会社にのし上がっていったエンロンという会社が崩壊していった過程が描かれております。驚いたことに、それはライブドアが崩壊していったプロセスに非常によく似ているのです。「エンロン」を「ライブドア」に置き換えれば、ライブドアの今回の事件についての同じような本が出来上がってしまうような錯覚に陥りそうな感じさえします。粉飾会計、株価のつりあげ、IT関連企業、特別目的会社、そして30歳代の若い経営陣、等々、キーワードはすべて両者に共通しています。つまり、今回のライブドアの事件は、決して特殊な事件などではなく、社会主義体制の崩壊に伴って、世界の二極構造が終わり、アメリカを中心とした資本主義のグローバリズムが進んできた、その結果の一つの特徴的な出来事として把握する必要があるのではないかと思います。

 ところで最近、勝ち組と負け組、上流社会に対する下流社会といった言葉がよく使われますが、諸君はこれ等の言葉を聞いてどう思いますか?私自身は、これらの言葉を聞いて、日本という国はここまで品格を失ってしまったかと嘆かわしくなってしまいます。物質的な豊かさだけで人間を判断してはならないと、私達は各々の家庭で、そして学校で教えられてきたのではなかったのでしょうか。最近評論家の寺島実郎氏がテレビで、諸君より少し年上のいわゆる団塊ジュニアのことを話しておりまして、彼らは金銭を無上のものとして崇拝する拝金主義に陥っていると、年代論の一つとして語っておりましたが、私は、団塊ジュニアだけではなく、我が国全体が拝金主義の方向になびいて行っているような気がしてなりません。

 さて、いま諸君を社会に送り出すに当たり、ある銀行の頭取が言っていた言葉を諸君に伝えたいと思います。彼は「このような激動の世にあっては、一つの会社の寿命は長くてたかだか30年だと思われるから、大学卒業生が就職するとき、夢々その会社に永久就職するなどと考えてはならない。おそらく転職しなければならないときがやってくる」と言っておりました。いま希望に燃えて飛び立とうとしている諸君をがっかりさせるような話で申し訳ありませんが、激しい競争の実業社会を生きぬいてきた方の言葉だけに重みがあり、その話を聞いたとき、これは卒業生諸君に伝えなければと思った次第です。

 さて、このような価値観のはっきりしない、行き先不透明な社会に船出をしようとしている諸君を、先程も言いましたように、古えの人達の美しい言葉で鼓舞して送り出すことは、私にはどうしても出来そうもありません。唯一言えることは、自分の頭で考え、自分の足で歩いていく以外に道は開かれないのではないかということです。そんなことは当然ではないかと思うかもしれませんが、実はそうではありません。会社に就職して、その真っ只中でこのことを実行していくことは、それほど簡単なことではないのです。会社は一つの組織であり、組織の中のきまりは守らなければなりませんし、上司の言葉もよく咀しゃくして物を考えていかなければならないことは当然であります。しかし、このような激動の世にあって、自分の考えをしっかりと持って事にあたっていくのでなければ、社会の浮き草となって、巨大な闇の中に巻き込まれ、漂流する民となってしまうのではないかと危惧いたします。

 ところで、自分の頭で考え、自分の足で歩くことは具体的にどのようなことでしょうか。それは次のようにまとめることが出来ると思います。「まず、世界はどのような方向に向かって進もうとしているかに関する、可能な限りの広範囲の情報を集める努力をしなければなりません。そして得られた情報をもとに、自分の力で、世の中が進んでいく方向を見極める必要があります。これは、そんなに簡単なことではありません。ここまでの段階に達することが出来ればたいしたものです。次に、もし可能ならば、その分析に基づいて、世界はこれからどうあるべきかについて、あなたの考えをまとめてください。つまり、あなた独自の世界観の形成です。そして、その世界観に基づいて、あなたの一歩を踏み出してください」。何か途方もなく大変なことのように聞こえるかもしれませんが、世界という言葉を地球全体と考えると、とても出来そうな話ではありませんが、あなたの周囲のどんな小さなことでも、それは立派な一つの小世界であると考えますと、いま説明したプロセスをそれぞれの問題についてたどることは、時間はかかりますが、そんなにたいそうな話ではありません。要は、そうした小さな世界についてのあなたの世界観を積み重ねていくことが大切なのだと思います。

 いろいろと申し上げてきましたが、このような変動の激しい時代においては、「ぐずぐずする」ことも大切ではないかと思います。広辞苑には「ぐずぐず」とは、「行動や決断に不必要に手間取るさま」とあります。語弊を恐れずに言わせてもらえば、いまこの激動の世で、一歩一歩立ち止まりながら、ぐずぐず生きていって欲しいものだとあえて申し上げます。それを積み重ねていった諸君の頭上に、いつか輝かしい世界が現れることを心から祈って、学長としての諸君を送る言葉といたします。

 どうか、それぞれの与えられた場で、思う存分頑張ってください。