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大崎教授の海外駐在記「ガジャマダ大学駐在記5(6)」

 8月17日は、インドネシアの独立記念日でした。8月に入ると街のかしこに、独立を記念した幟が立ち並びました。前日の16日は、ガジャマダ大学の構内も、国旗に因んだ赤と白の模様の飾りつけがされて、楽団も繰り出して、お祭り騒ぎがありました。17日の当日は、学校は休みで、宿舎のある町内では子供パレードやバレーボール大会がありました。

 独立前のインドネシアの旧名は「オランダ領東インド」です。オランダ領東インドは16世紀より350年にわたりオランダの植民地でした。1941年12月8日に日本が対米宣戦布告をすると、オランダ領東インド政庁が、2日後の12月10日に、日本に宣戦布告したそうです。当時、オランダ本国はドイツに占領されていて、イギリスに亡命政府があり、オランダ領東インド政庁の対日宣戦布告は、後にオランダ亡命政府により追認されたそうです。

 この宣戦布告に応じて、日本は1942年3月1日にオランダ領東インドに侵攻し、3月10日にオランダ領東インドを日本の軍政下に置きました。そして、流刑軟禁されていた民族主義運動家で、後のインドネシア共和国の初代大統領のスカルノと副大統領のハッタを開放しました。現在、ジャカルタにある国際空港の名称は、スカルノ・ハッタ国際空港です。しかし、日本は、彼らの要求するインドネシアの即時の独立には応じませんでした。

 独立に先駆けた1928年10月28日に、ジャカルタで、若い民族主義者たちの政治集会「インドネシア青年会議」があり、祖国の国名をインドネシア(インドの島々)、国民はインドネシア民族、国語をインドネシア語にする、という「青年の誓い」が結ばれたそうです。

 1945年8月15日の日本の敗戦を知った、スカルノとハッタは、8月17日に、ジャカルタで、インドネシアの独立を宣言し、この8月17日が独立記念日となりました。しかし、日本の敗戦を受けて復帰したオランダ領東インド政庁はインドネシアの独立を認めず、イギリスの援軍も加わって、インドネシア独立軍と5年間戦いました。インドネシア共和国が正式に樹立したのは1950年8月15日です。この間、80万人の犠牲者が出ました。

 インドネシアは1万3466の島からなり、人口は2億3000万人。300の民族がいて、語彙も文法も異なる583の言語があります。インドネシア語は、スマトラ島がマラッカ海峡を挟んで対岸のシンガポールやマレーシアに最も接近するリアウ州の一方言で、海峡の両側で話されていた、海上交易のための共通語の海峡マレー語を基にして作られた言語だそうです。国民の45%のジャワ人が使うジャワ語を国語に、という動きもあったそうですが、「インドネシアは多民族が共存する国家なので、どの民族の言語も国語にしてはならない。ある民族の言語が国語になれば、その民族が国を支配するからである。」と「青年の誓い」で宣言し、新たにインドネシア語を作りました。この時、インドネシア語という言葉自体が、歴史上初めて登場したそうです。

 現在、インドネシア語の話者は1億6500万人だそうですが、日常的に使っているのは3000万人だそうです。例えば、ガジャマダ大学はジャワ島中部にあり、大学の授業はインドネシア語で行われます。しかし、学内での日常会話は、インドネシア語とは全く異なるジャワ語で話されています。

インドネシア独立記念日幟の画像
インドネシア独立記念日幟

子供パレードの出番を待つ の画像
子供パレードの出番を待つ