学校教育法83条によれば、大学の目的とは、「学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させること」とされている。
昨今、学生の学習習慣や学修成果を数値によって「客観的に」評価しようとするさまざまな試みが見られる。たしかに、「専門性」を盾にして、学生の学びの質を担保することから遠ざかることは許されない。しかし、各教員の背景にある多様な専門性を、授業等を通じて学生の学びへつなげていく工夫を多様に考えられる余地を残すこととは、対立するものではない。もちろん、大学における学生の学び自体についての探究も含めて考えられなければならない。こう考えれば、「いつか役立つ、いつか思い出すことがあるかもしれない」授業も、「極めて限定的な操作を体で覚えるような」授業も等しく、学生たちの学習する権利を阻害するものであるとは明らかである。
大学の授業で教員が自著を教科書にし、学生相手に一方的に自説を展開する“昔話”が皮肉的に語られる。学生たちが心の底から自発的な動機であるかどうかはさておいても、高等教育機関で学ぶことが当たり前になってきている。学術の中心であると同時に高等“教育”の一場面であれば、学ぼうと意志をもつ学生たちに対して如何に「知識を授ける」か、その工夫の一環として知や文化のおもしろさを伝えることが今こそ求められているはずである。
筆者の所属校も含めて、免許や資格を取得、資格試験に合格、就職後に「即戦力として活躍」することのできる「能力」を学生が獲得できることは重要である。しかし、それは、現状の社会に追随する術しか伝えないこととは区別されなければならない。2020年以来の新型コロナウイルス感染症(covid-19)の世界的な拡がり以来、社会の先行き不透明さが言われる中で、そのような選択が極めて危険であることは明らかである。
実践力に縛られ過ぎず、研究を踏まえたわたしのことばで、生活や文化を学生に伝える授業を考えることが、わたしのFDのテーマである。
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