学生が教員をどのように感じているかは、われわれにとって関心事である。講義には「学生による授業評価アンケート」というものがあるが、ゼミなど少人数で、日常的、長期的に接するような場では、教員のやり方への評価を面と向かって口にする学生がいないかぎり、それを明確に知る機会はほとんどない。だとすれば、これまで師事した教師を自分がどう思ったかを考えてみると、助けになるかもしれない。
学生時代、わたしの研究室は講座制で、教授、助教授、助手がいっしょに学生を教えていた。教授は学生をやる気にさせるのが上手な人で、卒論ゼミでは学生の発表に対し、夢のある展望を示唆したり、「おもしろい、やってみろ」と景気よく言ったりする。難点の指摘や叱責は助教授で、教授の思いつきを解説し、具体的な調査や分析の指導をするのはすべて助手の役目だった。この役割分担のせいもあってか、教授は学生から慕われた。
それは学生から見た、やる気にさせ、難点を指摘し、具体的な手ほどきをする教師像だった。理想像ではない。教師がこのようにしたら、学生(である自分)はこう感じたという事例の集まりである。わたしは大学で教えるようになってから、慕われるかどうかはともかく、いいと思えるものをこの事例の集まりから拾い、試すようになった。ほかにも中学、高校時代の先生、語学学校の教師など、まねてみようと(またはまねずにおこうと)思う人や方法は多い。
問題は、自分がいいと思う教師をまねても、結局は学生次第ということである。あたりまえだが、ある学生がやる気を出しても、ほかがそうなるわけではない。30年前の教師と学生の関係は、いまでは通用しないものもある。
これまで師事した教師のスタイルや教授法は、おおよその指針にしかならないのだろう。陳腐な結論だが、学生それぞれの気質や、社会が大学に求めるものに合わせてその指針を調節しつづけるしかない。指針は一種のよりどころにはなってくれるけれども、大事なのはそれを過信しないことではないか。
「指針」も大仰な言葉で、教師の心得めいた話をするつもりはない。せいぜい「こういうことなのかなあ」くらいのものである。実際には「このやり方でよかったのか」「あのアドバイスでよかったのか」と悩む毎日である。
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