以前、あるアメリカ人の先生から「英語の"teacher"は、job description(職務の記述)にすぎないが、日本語の『先生』は、life position(終身的地位)だ」と言われ、その深い洞察に驚いた。なるほど、英語で"Teacher!"と呼びかけても意味をなさない訳だと納得した。
ここで、なぜFD活動が進展しないのか、その担い手である大学教員の意識について少し私見を述べたい(筆者は、大学で仕事するようになって10年足らずの若輩者で、サラリーマンとして宮仕えした経験の方が長い)。
戦前、京都帝国大学で後にノーベル賞を受賞する湯川秀樹教授の授業を受けたある学生が、ほとんど理解できないのでわかりやすく説明してほしいと願い出たところ、「わからないのなら授業に出なくてよい」と言われたそうである。現在、"つばさ"に参加されている皆様には考えられない、ありえない発言であろう。しかし、当時(トロウ・モデルの「エリート段階」)の大学は、自らの学問研究に没頭する大学教授(「教え授ける」人なのに、教育は二の次)が中心であり、学生は外に置かれていた。「先生」を中心に学生が回っている教員の「天動説」ともいえる世界観が支配していたようだ。
現在、大学を取り巻く環境は激変し、学生も実に多様になった。にもかかわらず、大学教員の「生産過程」(大学院博士課程)において、もっぱら学問研究に没頭するタイプの教員候補が再生産され続け(しかし教員になれるのは一握り)、教員の「天動説」も永久不変のように見える。そのようなタイプの「先生」が研究者として重要であることは論を待たないが、他の多様なタイプの教員も学生の多様化に対応するために必要となってきたように思う。
従来の教員がFD活動を通じて多様な見方を学ぶだけでなく、多様な経歴と知見を持った教員が少しずつ増えていくこと(大学「教員」の機能別分化)により、教員の「天動説」が「地動説」へ、誰かが異端として火あぶりになることなく、徐々にパラダイム・シフトしていくのではないか。その中で、学生の主体的な学びを実現するためのFD活動が進展していくのではなかろうか。