【本書ではひとつの中心になる考え方が各章を貫流しています。その考え方を要約しますと、「学生たちは活気にあふれている。教育の目的とは、この活気ある学生の自己の発達を刺激し、指導することだ」ということです。この前提から自然に導かれる結果として、教師たちもまた生命力ある思想をもって生きねばなりません。本書全体が「死んだ知識、いわゆる不活発な観念」に対する抗議(プロテスト)なのです。(v)】
上記は、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド『教育の目的』の序文からの引用である(The Aims of Education and Other Essays. London: Williams & Norgate, 1929. 本文中の邦訳は、ホワイトヘッド著作集第9巻、森口兼二・橋口正夫訳、松籟社、1986を使用)。門外漢の私が折に触れて本書を繙くのも、この本が、あわただしい日常にあってとかく怠りがちな教育活動への反省を促してくれるからである。この序文にあるように本書に通底しているのは、学校教育においてつめこまれがちな「不活発な観念」に対する警鐘である。
【思考力の活動について子どもの訓育上、何より気をつけねばならないのは、私が「生気のない諸観念」とよぶものです。頭につめこまれただけで、現実には使われもせず、テストもされず、新鮮なさまざまの関連性に結びつけられることがないような、ただの諸観念です。(1-2)】
ここで「生気のない諸観念」とは、現実世界において、「実用化」"utilize"されないような諸観念のことである。但しこの場合の「実用」とは、いわゆる実社会で即戦力となるような「実用」とは根本的に性格を異にする。むしろそれは、教養教育と専門教育との有機的連関のもと、科学、文学、哲学などにふくまれる諸観念が、人間の全生涯においていかに適合されるかという問いを前提にしている。ホワイトヘッド特有の表現を借りれば、「実用とは、「諸観念を生命の流れに関連させる」ことであり、このプロセスを通して、われわれははじめて現実世界を理解することができるのである。
しかしながら、ホワイトヘッド自身も語っているように、この現実世界の理解へのプロセスは至難の道と言わねばならない。本書はいかにも科学者らしい明晰な文体を基調としているが、時に悲愴なまでの調子を帯びることがある。
【私たちが、軽薄な惰性で処理された結果として出現している一国の青年教育に関する諸問題の深刻さ、滅茶苦茶にされた生活、うちひしがれた希望、国家の衰退などを全体として考えますと、誰しも、こみ上げる怒りを抑えることは困難です。現代生活の諸条件の下にあって、訓練の行き届いた知性を大切に評価しない民族は滅びる運命にあるという鉄則は、絶対的なものです。(21)】
この悲愴感ただよう一節を読むとき、われわれは、これが第一次世界大戦のさなかに行われた講演の記録であることを念頭に置くべきだろう。しかし、最後の一文は、およそ百年を経た今日でも傾聴に値する。
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