変えないために変わる
学内のFDを推進する委員に加わり、七ヶ月になる。本学のような小規模大学であっても、教職員が一丸となって授業改善に取り組み、学生によりよい学びの機会を提供することの難しさを痛感している。
ある日、見慣れた景色ではあるが、今一度、FDという観点から大学を見回してみた。すると、いかに大学が外の世界から変化を求められているか、そして、大学がそうした要望に応じているという事実に驚かされる。そうした変化というものは、本当に必要なのであろうか。変化するより変化しないことによるデメリットは、それほど大きなものなのであろうか。そもそも、なぜ大学は変化しなければならないのか。
正しい答えは専門家にご教示いただくとして、自分なりにたどり着いた(というより、ひねり出した)答えというものをここで紹介する。恐らく、大学にとっては重要で、変えたくない何かがあり、その何かを固持するために大学は自ら可能な限り変化する道を選んだのではなかろうか。
学生の保証人から就職先として納得のいく企業名を挙げられればその業界に卒業生を送り出そうと努力し、学生が生活空間としてのキャンパスに不満を訴えればそれを改築し、「お上」から多様化する学生に対応せよと求められれば放課後や長期休暇中でも補習授業や集中講義を行い、卒業生を受け入れてくれる企業から社会人基礎力を求められればキャリア教育を授業にして単位を認定してしまう。大学がそれほどまでして固持しようとする「何か」とはいったい何なのか。
それは建学の精神である。大学(ここでは、特に「私立大学」)が自らその存在価値を保証できるのは、揺るぎない建学時の理念が今もなお受け継がれているからこそである。この理念が大学の教育目標に反映され、その実現に向けて体系化されたものがカリキュラムであるということは周知の通りである。
地球上の生命体は、これまでの歴史の中で変化と安定とを繰り返してきた。安定だけでは絶滅する危険性があることに気づいたものは生き残った。しかし、変化し続けた先に何が待っているのか、誰にもわからない。こうした問題にこそ、大学は真っ先に取り組むべきことのように思える。