『褒められるとその気になる、その教育効果』
「素晴らしいです」「気剣体が一致しています」
凛とした道場で80歳を超えた総帥が厳かに発した言葉である。
この日は、居合を一年前から習い始めた大学教員と本家筋の方々との初の合同練習の日であった。いきなり総帥から「武道は練習ではなく稽古です」との指摘で幕が開いた。ここ何年も何十年も忘れていた緊張が私の全身に蘇ってきた。粗相をすると真剣で一刀両断にされそうである。
私に居合は似合わない。これは私自身も自覚しているし、友人からもそう言われる。居合は型である。ひたすら型の練習ではなく稽古をするのである。剣道のように対戦相手と撃ち合うことなく、一人で仮想の相手と戦うための決まった型を反復稽古するのである。私は型や反復に耐えられない、なんちゃって男として生きてきたのだ。
私が居合を習い始めたのは、私の敬愛するある名誉教授が、半年後に故郷の茨城に引っ越すので居合を伝授したいと言ってきたからだ。この先生だってカルチャーセンターで一年前から習い始めたばかりの初心者なのだ。流派が高齢化し後継者もいなくなっているので、是非習って欲しいと頼んできた。私も高齢化しているし、剣道もしたことがないし、そもそも正座もできないので断ったが、断り切れないのであきらめ、私の同僚を道連れにしようと、一緒に居合を始めないかと声をかけると、みんな即座にOKしてくれた。信じられないくらい良い人だらけである。研究室の学生も半ば強制加入してもらい、山形大学の居合道研究会が設立された。週に一度か二度昼に名誉教授の指導の下で、稽古をすることになった。学生たちや職員は2・3回来て、それ以後来なくなった。残されたのは3名の善良な教員だけである。
はじめの頃は、鞘から刀を抜くことさえできなかった。刀を抜くためには上手に鞘を引くことが大事なのだ。これが身につくのはしばらく経ってのことだった。膝を浮かせる居合の基本姿勢をとることによって、階段を上るのに不自由するようになった。Tシャツから稽古着に変わると、上手くなった気になった。コスプレにはまっているようだった。それでも初めて袴をはいた時は、両足を一つの口に入れて思いっきり転んでしまった。そうしたことがありながら、我々はそれなりに稽古を続けた。
文頭に戻ると、ついに本家との対面である。三人一組で総帥の前で型をすることになった。そこで神のような総帥から発せられたお褒めのお言葉である。天にも昇る気持ちとはこのことである。「気剣体」の漢字が思いつかないし、意味も分からない。でもでも、褒められていることは分かる。夏の間、稽古をさぼっていたけれど、これから精進します、と新たな気持ちになった。
褒められることがこんなに嬉しく、教育効果があるならば、もっと学生を褒めてやらなければ、とその日は心底思った。しかし、一年経った今も褒め上手にはなっていない。 修行半ばである。
我々の流派は大日本兵法居合道・長谷川英信流・谷村派である。