「手の内」、なんじゃいそりゃ
「目付け」「手の内」「序破急」「残心」「守破離」、この言葉がわかる人は、剣道などの武道の心得がある人だろう。私は5年前にはこうした言葉をまったく知らなかったが、4年前から居合道を習うようになって、こうした言葉を見聞きするようになった。
居合道には昇段試験がある。昇段試験は毎回、筆記試験と実技試験があり、いずれも7割以上を取らなければならない。筆記試験は上記の用語を説明させる問題が出る。一緒に試験を受ける人たちからは、大学の先生だから筆記試験は楽ちんでしょうと言われるが、決してそうではない。用語が日常言語ではないので意味がよく分からないのである。それでも大学教員というプライドも手伝って、丸暗記をし、筆記試験は満点となる。丸暗記した文章は数日、いや試験が終わった瞬間に忘れてしまう。毎年、この繰り返しである。これでは学生たちの試験勉強となんら変わりがない。
それではこうした一夜漬けや丸暗記がまったく無意味かといったら、そうでもない。習い始めの頃は、筆記試験では満点になっても、何の意味かよくわからないし、ましてやこれを実技で活かすことはできない。だが、稽古を始めて数年経ったある日にふと「手の内」の重要性と文章の一部が頭に浮かぶのだ。「ああ、こういうことだったのか」と。このような鼻に突き抜けるような快感は、以前学んだ経験がなければ得られないだろう。
だが、頭に浮かんだからといって、それをすぐに実演できるかと言ったら、また話は別である。身体化できることは、理解することのさらに先にある。私の脳と身体の距離は、日本とアフリカ最南端の喜望峰の距離よりもずっと遠いのだ。
最近、我々の流派の総帥から直接稽古をつけてもらう機会があった。総帥が木刀を持って実演し指導してくれた。90歳にして、その剣は驚くほど速く正確だった。総帥の指摘は的確であったが、その指摘が一年前に行われたならば、私はまったく理解できなかったはずだ。同じことを言われても理解できるタイミングというものがある。時期は熟すのを待たなければならない。これは大学教育でも同じことだ。
私の運動神経は平均値よりもかなりどんくさい。居合道にしても然りである。何度言われても正しくできない。だが、それも悪いことばかりではない。どうすればできるようになるか、自分で動きを分析する。この経験を踏まえて、私と同じようにできなくて困っている人に、言葉で丁寧に説明できるようになる。自分がすぐできたことは、人にわかりやすく教えることはできないけれど、つまずいたことは分かりやすく教える自信がある。私は実力がないのにかなり理屈っぽい剣士になっている。職業柄かもしれない。
2年前の2015(平成27)年度のつばさリレーエッセイに「褒められるとその気になる、その教育効果」というタイトルで、居合道について書いた。生来飽きっぽい私であるが、居合道は今も続けている。私一人で稽古をしていたならば、とっくの昔に止めていたはずだが、一緒に稽古に励む同僚がいるので止めるわけにはいかない。そもそも私がかれらを巻き込んだのだ。習い事や学習を続けるには仲間が必要だということを痛感する。教室で学ぶ学生も同じだろう。
我が流派は、大日本兵法居合道・長谷川英信流・谷村派である。