「学修のすすめ」
授業の中で、「学習」と「学修」という同音異字の言葉を使い分けるようにしている。そうすると、「何故、違う字を使ったのか?」という質問をしてくる学生が必ずいる。「よくぞ質問してくれた!そこを是非とも考えて欲しいんだ!」と私の意図を話し始める。
私は、授業という場を通して「習う」ことと、自身の中で学びをまとめる「修める」ことを意識して使い分けて実践して欲しいのである。まずは単位について大学設置基準21条について話をする。
この中に「1単位の授業科目を45時間の学修を必要とする内容をもって構成する」と記されていることから、2単位の講義科目においては90時間の学修時間をもって構成され、授業においては30時間の学習が施されるということを説明していく。
90-30=60ということで「1科目につき60時間の自学自修が必要だ」という話をする。学修の総量は法令によって定められているということと現実に学生達が行っている学修の差違について考えてもらいたいのだ。多くの学生における授業の主目的は「知の獲得」「学びの修め」であり、その証として「単位の取得」がある。学び修めの成果をはかるものとしてテストやレポートがある。しかし、テストやレポートにて良い点を獲得することが主目的となり、学びを修めるということにまで意識を持てているケースが多くはない。このことを考える際に思い出す詩がある。
なんだってそんなにあわてるんだ
早く大きくなって何が待っているというんだ
子豚よ
そんなに急いで
食うなよ
そんなに楽しそうに
食うなよ
これは、星野富弘の「鈴の鳴る道」(1986年・偕成社)に記されている。一般的には情報社会での没個性化への警鐘と捉えられるが、私自身は学修への警鐘と捉えたい。家畜(子豚)のように餌をただ待ち、出されたものを急いで食らうような学習では、学問の本当の面白さは見えてこない。「学問」という言葉にしても「学んで問う」と書く。「問う」ことなく学ぶのは、本当の意味においての学問ではない。学んで「問う」こと、学んで「修める」ことは、「主体的・対話的で深い学び」へのスタートなのではないか。
元プロ野球選手・野村謙二郎(広島東洋カープ)は引退の際に「今日集まっている子ども達、野球はいいもんだぞ!野球は楽しいぞ!」と叫んだ(2005年10月12日)。私も同様のことを学生達に言いたい。「学修は楽しいぞ!」と。私自身が学者を志したのは学びが楽しかったからだ。その「楽しい」気持ちを伝え、実際に「本当に楽しい!」と実感させてあげることが一番重要だろうと考えている。「楽しさ」を理解することができれば、その学びは主体的・対話的になり、深く学ぶことに繋がってくるだろう。そのように導けるような授業を心掛けていきたい。