経験知が必要なわけ
私は昨年まで、地方の小さな博物館の学芸員、研究員の職に就いていた。来館者の年齢層は非常に極端で、ふるさと教育や昔の生活などの単元で訪れる小学生と、時間に余裕があり、かつ昔の生活を懐古したい世代が主な来館者であった。
そんな小さな博物館も、夏休みが近くなると、日常と違った来館者がやってくる。それが大学関係者である。
先生方は自身の研究の為に来館し、学生は授業の一環でやってくる。彼らの関心は単位取得であることは手に取るようにわかるものの、その中にも本気でこの博物館のがらくた(民具)に向き合う学生がいることに驚く。もちろん、民具は民俗資料の一つであり、昔の生活様式を表す資料であるが、学生にとっては物珍しい道具である。
民俗学、民具学が専門で学べる機関が少ない山形県では、学問的な、資料的な貴重さよりも、実生活に根付き、「これ知ってる。おばあちゃん家で見たことある」という感覚が通常である(個人的な疑問ではあるが、こういった説明をする場合おじいちゃん家よりもおばあちゃん家が多いような気がする。)。この地方生活の
当たり前
という感覚が興味の差につながっていることは明白であった。
例えば、火(ひ)熨斗(のし)という道具を説明する際、火熨斗の構造と材質をヒントに考えさせることがある。時代劇が好きな学生や、構造、材質、さらには展示箇所などの情報から推測できる学生もいるものの、想像すらできない学生が多い。そして「わかりません」という回答につながる。推測、想像する訓練、推測、想像を述べる訓練が足りないのである。
一方で「おばあちゃん家で見たことある」学生は、つぎつぎと「これ〇〇じゃない」と推測で回答し、もちろんその言葉は正確ではないものの、要点を得た説明をし、正解を導くのである(ちなみに火熨斗は炭を利用した布地の矯正用具で、現在ではアイロンに置き換わって使用されなくなったものである)。
この差を考えると、実際に体験し、その体験を元に想像できる環境がいかに大切であるか教えてくれる。百聞は一見に如かずとは正にこのことで、参考書や教科書の中の世界を想像するには非常に豊かな想像力が求められる。それこそ本を百回読んで初めて理解できるのかもしれない。火熨斗という文字から想像できることは、火を使う、熨斗袋ののし、位であろう。もしかすると熨斗すらわからない可能性もある。そして、アイロン的道具であるということは他の情報に依存する必要があるということがわかるであろう。
フィールドワークや体験型の講義は体験を元に経験知を育成すること、経験知をもとに想像する力を養う土台を育成できる講義である。学生には自分の知らない世界に飛び込む勇気と経験知を育成していただきたいと同時にその一助になりたいと私は思っている。