







ホーム > 新着情報:プレスリリース > 2026年05月 > 学長定例記者会見を開催しました(5/7) > 最上義光文書を新たに発見 ~個人蔵の慶長17(1612)年6月4日付「最上義光知行宛行状」を発見~
掲載日:2026.05.07
本件のポイント
概要
個人蔵の慶⾧17(1612)年6月4日付の最上義光発給文書を発見しました。その内容は以下の通り。
為神前掃除等之料、拾弐石五斗之所、但半物成附置候、弥可抽勤節者也、仍如件
慶長拾七年 少将出羽守
六月四日 義光
下山添村ノ
八幡法分
その内容は、最上義光が下山添村八幡宮の神前掃除等の料所(領地)として、12石5斗の所(5割の税)を八幡宮の「法分」という役の者に与えたもの。
最上義光は、近年大いに注目を集め、「最上義光を大河ドラマにする会」まで発足している。とりわけ、4月 15日には県知事までもNHK 本局に直談判される状況である。ただ、これまでは、最上義光といえば山形市周辺での活動が注目されがちであったが、義光の支配は、庄内地域にもおよび、北館大堰の開削など庄内開発の基礎を築いた点も忘れてはならない。本文書は、義光のそうした庄内支配を具体的に示しており、重要である。
詳しくはこちら(リリースペーパー)をご覧ください。
庄内地方の支配(所有)といえば、酒井家が注目されがちである。だが、最上義光は慶⾧6(1601)年4 月に庄内支配を達成すると、慶⾧8(1603)年には大宝寺城を鶴岡城、東禅寺(酒田)城を亀ヶ崎城と改名したように、鶴岡の命名者であった。とりわけ慶⾧17(1612)年7 月には反対を押し切って北館大堰の開削を成功させ、庄内の美田を生み出したことは忘れてはならない。元和8(1622)年に改易されたが、最上家の後に入部した酒井家は、 最上家の支配を踏襲したために、本文書もそうであるが最上義光の関係文書が多数残存している。さらなる研究を進め、義光文書の発見などに努めたい。5 月16 日には、本文書の紹介しつつ、最上義光講演会を本学にて開催予定である。また、5 月 30 日にも、最上義光講演会(慶⾧出羽合戦に注目)を予定している。
用語解説
1.最上義光…最上義光(1546~1614)は、置賜地域を除く山形県域と秋田県南部を支配した戦国・近世大名
2.宛行状…戦国大名などが武士や寺社に対し、知行地・領地・俸禄などを公式に宛て行う(授与する)ために発給した文書