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氏家由希子 地域教育文化学部 地域教育文化学科 4年

◇派遣先大学: インドネシア・ガジャマダ大学 (Universitas Gadjah Mada)
◇派遣期間: 14日間 [平成31年2月19日㈫ ~ 平成31年3月4日㈪]

 ◇日本語教室での活動内容
 ガジャマダ大学(以下UGM)農学部棟内のラボを使用し、1日あたり約3時間の日本語クラスを開講した。午前10時から11時半まで、午後1時半から3時までの2回にわたって教室に入った。
 最初の2日間は、私の前日に到着していた男子学生1名と2人で10人以上のUGM学生を対象に教えた。私は主に「漢字」を深く学習したい学生を担当した。このグループの大半は平仮名と片仮名はもう大体の読み書きができる中級レベルで、漢字の部首や書き順について細かく質問する学生もいたほどだった。漢数字の書き順やものの数え方を覚えて、全体で書き順や単位を唱和して覚えられるように進めた。チューターの日本人学生が増え始める前まで、『実践日本語教育を学ぶ人のために』(佐々木瑞枝著 世界思想社)を参考に、ニュアンスの異なる言葉の解説なども行った。「安い」と「安っぽい」、「休む」と「サボる」について、実際の場面を学生達に想定してもらいながらどちらの言葉を使うべきか、また例文を考えてもらった。
 私ひとり対2、3人と、少人数グループで学習できるようになって以降は、学生から問われる質問内容がぐっと深まって個別に応じる力が求められた。例えば「“有名”と“盛ん”と“人気”の違いは何か」「“ゆうれい”と“ようかい”は何が違うのか」など、普段あまり意識せずにつかっている日本語について、たびたび素朴な疑問がとんできた。辞書を用いたり、他のチューターも話に混ざったりして、学生が納得できる説明で応えるために、こちらも深く日本語について考える機会になった。
繰り返しボードに書いて示し、日付や曜日の言い方を丁寧に発音して、学生に漢字や言い回しが定着するように心がけながら、アウトプットの負荷をかけることを心がけて教えた。

◇日本語教室以外での交流活動
「日本文化について知れる交流会を開いてほしい」という農学部のIpik先生からの依頼を受けて、イベントを行った。UGMチューターの学生リーダーとも内容を相談し、参加の日本人学生全員が揃ってから4チームに分かれて3日程度で準備をした。イベントでは山形大の紹介、山形県の紹介、日本文化(珍味)のクイズ、じゃんけん列車の4つの内容で、英語や簡単な日本語を交えてのプレゼンなどを披露。私はクラスの学生に協力してもらいながら原稿を準備し、会の進行をインドネシア語で行った。金曜日の放課後、「山形友達の集い」と題した交流イベントには、悪天候の中でも述べ40名ほどの学生や小さな子どもが集って、終始和気あいあいとした雰囲気の中で成功させられたのではないかと思っている。 

◇参加目標の達成度と努力した内容
 このプログラム参加にあたって掲げていた「インドネシアに関する新しい知見を3つ得る」「交流する学生のレベルに合わせて、日本語とインドネシア語を使い分ける」という2つの目標は、おおむね達成できた。今回得られた知見について、以下の3つにまとめる。

(1)「日本語が話せるインドネシア人」と一口にいっても、日本人や日本語への見方・考え方を人それぞれに抱いている。
(2)出席学生は所属する学部や学年に関係なく、「日本語を学びたい」という熱意も持っている。
(3)ジョグジャカルタは「観光地」として名所や自然が見られるだけでなく、大学街として栄えている。

 かつて参加した日本語パートナーズ事業で関わった日本語を流暢に話すインドネシアの人々は、日本語の先生、大学で専攻している先生や学生も多く、彼らが「日本語」を知っているのを当然のように感じながら接する場面も多かった。特に(1)(2)に関して、このプログラムで接したのは農学部の低学年の学生が特に多く、他にも経済学部、国際政治学部、工学部、文化学部と専門分野が異なっており、また「日本語」や「日本人」との接点も学生によって差があった。いい意味でその差から「日本語学習者」が「多様」であることを、同じインドネシアという国の中での新鮮な感覚として受け取ることができた。インドネシア国内各地から学生が集まっているUGMならでは、とも言えるのかもしれない。時間をつくってはラボに現れ、自分の好きな「日本」を夢中で話す学生、分からない単語の意味をふいに尋ねてくる学生、既に知っている知識と結び付けて漢字の新しい読みや使い方をすかさずメモする学生。またクラスを開講している情報を聞きつけ、他大学からきた学生もいた。毎日一定のメンバーとは限らずに1時間、1時間、目の前の学生にとっての「先生」として向かい合ううちに、日本語とインドネシア語を自然な流れで使い分けていた。ツールとしての完璧な日本語を教えて、間違いなく完璧に正そうとするのではなく「日本語を学びたい」という純粋な気持ちに応えようと意識して、相手と会話することに努めた。

 ◇プログラムに参加した感想
 4年生で参加したのは私ひとりだった。数少ない「学生大使」経験者として、担当教員のつかない大学独自のプログラムにおいて、短期間に10数名という日本人を受け入れるUGMの学生チューターのそばにいながらインドネシア語を学習中の身として、気づくとどうしても“コーディネーター”のような立ち居振る舞いをとる場面も時折あったと振り返る。もちろん、日本語教室ではいち山大生、後輩やインドネシアの学生の姿から沢山の刺激を受けた2週間になった。「いてくれて、来てくれてよかった。ありがとう」と声をかけてもらえたことは、“山大生”としての最後の日々で忘れがたい思い出になり、このプログラムやインドネシアへの思いが募っている。

 ◇今回の経験による今後の展望
 間もなく山形大を卒業し、仕事で専門的に中小企業の採用支援、学生の就職支援を行う。誰かの熱意を隣で応援したり、「伝える」ということと向き合い続けていったりする姿勢は変わらない。いつかまたUGMの学生と会う日まで、あるいは日本に在留して働く外国人のフォローもする時まで「日本語を教える」ための勉強も、並行して進めていこうと考えている。

農学部で「耕作」について学ぶ女子学生。茨城など日本への渡航経験があり、論文執筆の合間で同い年ということもあり、クラスでの会話も弾んだ。帰国間際にクラスのお礼といって、土産を届けに来てくれた。の画像
農学部で「耕作」について学ぶ女子学生。茨城など日本への渡航経験があり、論文執筆の合間で同い年ということもあり、クラスでの会話も弾んだ。帰国間際にクラスのお礼といって、土産を届けに来てくれた。

相次いで到着する日本人学生の出迎えや、先生との連絡の仲介を担うUGMのチューター、リーダーの2人と。左端の彼は、キャンパスまでバイクで約1時間という通学距離にも関わらず、休日や平日問わず連日遅くまで参加者を見守ってくれていた。イベント終了後の1枚。の画像
相次いで到着する日本人学生の出迎えや、先生との連絡の仲介を担うUGMのチューター、リーダーの2人と。左端の彼は、キャンパスまでバイクで約1時間という通学距離にも関わらず、休日や平日問わず連日遅くまで参加者を見守ってくれていた。イベント終了後の1枚。

授業風景。右手前の後輩はUGMでのチューターが2度目で、前回知り合った学生との再会を喜んでいた。日本語で簡単なインドネシア語表現を教わり、互いの国の言語を理解しようと「交流」する場面もあった。の画像
授業風景。右手前の後輩はUGMでのチューターが2度目で、前回知り合った学生との再会を喜んでいた。日本語で簡単なインドネシア語表現を教わり、互いの国の言語を理解しようと「交流」する場面もあった。

夕食を探して道端の露店へ、インドネシア風の焼き鳥「サテ」を前にしての1枚。の画像
夕食を探して道端の露店へ、インドネシア風の焼き鳥「サテ」を前にしての1枚。