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大崎教授の海外駐在記「延辺大学駐在記2(1)」

 6月12日から、中国吉林省朝鮮族自治州延吉にある、延辺大学を再訪しています。昨年9月の帰国時は、中国全土で反日デモが吹き荒れていました。今回の 私の再訪を事前に知った方々から、「今は沈静化していますよ。再訪を知って嬉しいです」等のメイルを頂いていました。しかし、延吉空港には誰も迎えに来ていませんでした。到着ロビーを出ると、タクシーの運転手が声をかけてきたので、そのままタクシーに乗り込み、宿舎として予定されていた、ゲストハウスのある延辺大学国際交流処に向かいました。

 国際交流処は火曜日の昼だというのに施錠され、人の気配がしませんでした。ただ、守衛室にテレビの音がするので覗いてみると、守衛さんが荒唐無稽な反日ドラマを見ていました。彼には日本語も英語も通じなかったので、電話を借りて、外事科の金銀松科長に電話をしました。科長は「先生、今どこにいるのです か。空港では、先生が飛行機から降りて来ない、と言って大騒ぎですよ。空港に乗客名簿を見せるように頼んでも、守秘義務がある、と断られ、先生は中国には来なかったのだと、皆が失望しているところでした」

 金科長は、翌日から車で北朝鮮に出張するため、手続きに追われ、代わりに、外国語学院副院長の全永男先生が空港に行ったそうです。この日は中国の端午節の休日でした。国際交流処に駆けつけて来た全先生に、「誰も迎えに来ていないと思った」と言ったところ、「延辺大学は、お客様に対してそのような非礼はしません」ときっぱりと言われました。

 今回の私の身元引受人は、農学院院長の巖昌國先生だそうで、私のオフィスは農学院に用意されていました。しかし、訪中前から理学院の生物地理学でのセミナーを希望していたので、農学院副院長の梁成云先生が、理学院地理系の朱衛紅先生に連絡して下さっていました。今回の私の滞在は、10日間の非常に短いものですが、そのほとんどの時間を、理学院が企画した、セミナー、野外観察会、懇親会、などで占められるようです。

 14日の午後に日本語学科で講演をしました。内容は、前回、山形大学で行った「延辺大学報告」でした。延吉は第二次世界大戦終了後に、ソ連により日本人捕虜収容所が3つ設置され、4万人が収容され、8900人が飢餓や病気で死亡しました。遺体は延辺大学裏手の丘に直径50m深さ7~8mの穴を掘って埋葬 されました。その後、兵士はシベリアに送られ、民間人は雪原に放り出されました。その中に、作家の新田次郎もいました。

 講演は、その歴史的逸話を織り交ぜたものでしたが、それを農学院国際交流担当の尹哲友先生が知り、「ここの学生は、黙って聞いていませんから」と、事前にチェックしたいと言いました。彼は1920年に延吉周辺で起こった朝鮮族の反日運動「軍春事件」のスライドを加え、日本軍による朝鮮族の死者3500人、逮捕者5058人、破壊家屋2500軒、破壊された学校30校、と記し、「これで日本の被害とのバランスが取れました」と言い、さらに満州国を偽満州国と書き変えて、「これで学生は冷静に話を聞けます」と言いました。

 日本語学科での講演後に、学生たちが、「山形大学の学生さんを日本語チューターとして派遣して下さい」と大きな声で唱和しました。日本語学科主任の全先生の差し金でした。大学構内にある、国際学生寮の個室を二部屋、無料で提供するそうです。

延辺大学正門の壁面に彫刻を施す職人の画像
延辺大学正門の壁面に彫刻を施す職人

ゲストハウスの窓から見た夜景の画像
ゲストハウスの窓から見た夜景