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ラトビア大学駐在記7(1)

  山大生が「学生大使」としてラトビアに滞在せず,私の現地駐在もない期間,山大日本語クラスは先に紹介したラトビア大学のアグネス・ハイジマ先生により運営されている.2019年5月28日の上級者向け授業は,以下の例文の助詞を埋めるなど,日本の国語授業のようなレベルだった. 

 (例文) 新幹線は,8時(  )東京駅(  )出て,10時に京都駅(  )着きます. 

  そんな上級者が揃うクラスの中で,先月(2019年4月)亡くなった,ラトビア人の日本語通訳・翻訳者エドガルス・カッタイ先生のことが話題になった.同氏は,以下の国際交流基金のウェブサイトにおいて,ラトビアにおける日本語教育の草分けとして紹介されている.ラトビアにおける日本語教育は,カッタイ先生が1987年にラトビア大学外国語学部の講義室を借りて、夜間の日本語コースを開講したことに始まる。
(国際交流基金のサイト)
https://www.jpf.go.jp/j/project/japanese/survey/area/country/2014/latvia.html

 同サイトでは,ラトビアにおける「大学」日本語教育の本流が,いくつかの変遷を経て,現在はラトビア大学人文学部アジア学科の所管に至るまでの経緯が紹介されている.ちなみに,ラトビア大学において「学生大使」派遣プログラムを所管しているのもラトビア大学人文学部アジア学科であり,同学科長のプリエデ先生は山大生の「学生大使」としての活動を高く評価している.本学とラトビア大学の関係も,ラトビアにおける日本語教育の歴史を遡ることで,カッタイ先生の業績に繋がることになる.

  ここでカッタイ先生を紹介するのは,同氏の「翻訳」の業績について,ハイジマ先生と山大クラスの社会人受講生E氏(ラトビア大学教職員,1975年ラトビア大卒)から聞けたからだ.お二人とも,カッタイ先生の日本語講義を経験しただけでなく,同先生の翻訳作品に触れた経験もあるという.

  カッタイ先生の翻訳の業績が多くのラトビア人に影響を与えた背景に,その翻訳作品の多くが1991年のラトビア独立以前に出版されたことがある.いわゆる「ソ連時代」には,外国に関する情報は制限されていた.多くのラトビア人は,ソ連時代に一般に流布する外国の情報は「嘘」と感じ,情報統制を受けない「真実」に飢えていたという.そこにカッタイ先生の日本文学の翻訳作品が現れた.芥川龍之介,川端康成,遠藤周作などの作品,合わせて20点以上が翻訳,出版され,当時のラトビア人の眼に触れることになったのである.それら日本の小説は密かに人気を博し,書店では直ぐに売り切れ,図書館の本は頻繁に貸し出されてボロボロになったという.その影響力の現れか,先月(2019年4月)のカッタイ先生の葬儀には,多くのラトビア人(大学教職員,学生など)が参列したという.

  ラトビア独立前の為政者は,日本文学をフィクションだから規制しなかったのだろうか.しかし文学は「人間が生きること」を追究する.それゆえ文学作品の中には,作者それぞれが捉える人間の「真実」が現れる.その真実性が,外国「日本」をうかがい知ることのできる記述と共に,統制下のラトビア人に求められたのではないだろうか.

  さて,独立から30年近くを経た今日,残念ながら,カッタイ先生の翻訳作品を読むラトビア人は少ないという.今,この原稿を書いているラトビアの宿では,テレビでCNNニュースが流れている.社会における「真実」は,限られた情報の中から努めて探り出すものではなくなり,多くのメディア情報の中から,それぞれのメディアリテラシーをもって取捨選択し,組み立てる時代になった.しかし,溢れる情報の中にあっても,カッタイ先生の作品に触れた当時のラトビア人のように「真実」に飢えた眼差しがなければ,より深い部分に近づけないように思った.

授業中のアグネス・ハイジマ先生の画像
授業中のアグネス・ハイジマ先生

左側が日本語初級者、右側が上級者の画像
左側が日本語初級者、右側が上級者