ホーム > 国際交流・留学 > 海外拠点情報(駐在記) > リガ海外拠点(ラトビア) > 海外駐在記「ラトビア大学駐在記6(3)」

ラトビア大学駐在記6(3)

  現在(2018年9月),世界遺産となっているリーガ旧市街のリーヴ広場において,「ラトビア独立100年写真展」が開催されています.

  しかし,ラトビアの歴史に関することには,安易な気持ちで踏み込んではいけないとの意識が自分にはあります.詳細は他の情報源に譲りますが,地理的に大国の狭間にあるこの国の歴史は,20世紀末まで,それら大国の度重なる占領や介入を見てきました.歴史理解をさらに困難にするのは,現在のラトビアの地理的範囲内において,複数の民族が交錯して時代ごとに社会的優位性などの変遷を見ていることです.その中で,民族的なまとまりと言語を守ってきたラトビア人の心情を本当に理解することなど,島国育ちの自分にはできないだろうと思います.

  街を歩き,今回の写真展を横目で見たときも,1918年の独立と言っても第一次世界大戦後の混乱の中での出来事であり,その後のドイツ及びソ連による侵攻と占領を知る現在から振り返れば,1991年のソ連(事実上)からの独立と比べてどれほどの意味があるのかと,そのまま通り過ぎようとしてしまいました.深い歴史理解にその歴史を経た人々の心情を想う過程が必須だとすれば,100年前の独立の意味に取り組むだけでも並大抵のことではないと,尻込みする気持ちがあったのです.実際に,展示写真の内容は,ラトビア人のシベリアへの強制流刑など,旧ソ連による占領時代のラトビアの苦難とそこからの解放を主題するものがほとんどでした.

  ところが,偶然その広場に近い「ラトビア軍事博物館」に立ち寄ったとき,1918年の独立の意味の一つが示されていることに気づいたのです.

  第一次世界大戦からロシア革命を経てロシア内戦に至る時期,ラトビアは最も苦難に見舞われた時代を迎えていたことを,博物館の展示は伝えていました.まず,国土の約半分が塹壕地帯となったために耕地の4分の1が農業生産に使えなくなり,家屋の4分の1は全壊または部分壊の状況に陥りました.また,物資の生産拠点が戦場となるラトビアからロシアに移されたために,ラトビア人労働者は難民としてロシアなどに渡ることを余儀なくされました.貿易船は破壊され,交易の拠点となるべき港も閉鎖されました.この時代,ラトビアの国土の大半が,正に戦場となったわけです.

ロシアに渡ったラトビア難民や兵士は,その多くが母国に帰還できなかったといいます.一部には,ロシア革命とそれに続く混乱の中で思想的影響を受け,自らの意思でロシアに残った者もいました.また,欧州の他国に難民として逃れたラトビア人もいて,その多くは外国に生活の根を張り,そこで家族も出来たために,戦争が終わっても母国に戻ろうとはしませんでした.さらに,戦争や混乱が続いたことで,多くのラトビア人兵士が前線で戦死しました.

これらの影響により,ラトビアの人口は激減しました.1914年に250万人だった人口が1925年には180万人となり,35%も減少したのです.戦時とはいえ,これほどの人口減少は他の欧州諸国でも見られなかったと,ラトビア軍事博物館では映像も用いて示しています.正に,ラトビアの存亡に関わる危機に瀕した時期と言えるでしょう.

1918年の独立は,これほどの苦難の中で実現されたことだったのです.そのことだけで大きな意味を持つことは,一人の外国人としても感じることができました.博物館の第一次世界大戦コーナーの展示は,次のような言葉で終わっています.
<戦争によるラトビア荒廃の記述につづき>
However, the war brought not only losses.  The collapse of empires paved the way for the Latvian people to attain their own country.

リーガ旧市街中心部で開催されている「ラトビア独立100年写真展」の画像
リーガ旧市街中心部で開催されている「ラトビア独立100年写真展」

ロシア軍兵士から強制移送されるラトビア市民(1941年)※展示写真よりの画像
ロシア軍兵士から強制移送されるラトビア市民(1941年)※展示写真より