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大崎教授の海外駐在記「ラトビア大学駐在記(2)」

 1919年のラトビア大学創設の核となった学部は、神学部、法学部、医学部、哲学部ですが、1945年にラトビアがソ連に併合された際に、医学部は医科大学として分離独立させられ、神学部は廃止になりました。両学部とも、1990年のラトビア独立直後に、医学部は医科大学とは別に新設され、神学部は旧に復して再建されました。山形大学には神学分野がないことと、私の専門が進化生態学なので、私は神学部に関心がなかったのですが、ラトビア大学やラトビアの歴史を知るほどに、神学部に興味が湧いてきました。

 神学部には3学科があります。体系的実践神学科、教会及び宗教歴史学科、聖書神学科。そして、最重要な基礎科目は、ラテン語とギリシャ語です。キリスト教は大きく3つの宗派に分かれます。395年にローマ帝国が東西に分かれると、西ローマ帝国の首都ローマに西方教会が、東ローマ帝国の首都コンスタンチノープルに東方教会ができます。この2つの教会は、次第に教義を異にしますが、1054年に西方教会がカトリック(普遍)、東方教会がオーソドックス(正統)として分離独立します。カトリックはヨーロッパに普及し、16世紀にドイツのルターの宗教改革で、カトリックとプロテスタントに再分裂します。一方、オーソドックスは、スラブ世界に広がりました。ロシアでの呼称はロシア正教です。

 ルターが聖書をドイツ語に訳す前は、西方教会の聖書や教義はラテン語で書かれており、東方教会の聖書や教義はギリシャ語で書かれていたそうです。したがって、ラトビア大学神学部では、ラテン語とギリシャ語が最重要基礎科目です。

 ラトビアにキリスト教が到来したのは、1193年に始まるドイツを中心とした北方十字軍の侵攻によるものです。ラトビア大学神学部のある、大学本部ビルの前に旧市街が広がっています。多くの建物は石造りの5階建てですが、教会の尖塔は一際高く聳えています。最も高いのが1209年の文献で教会の存在が確認される聖ペトロ教会の123mです。15世紀から16世紀にかけては、尖塔の高さは136mだったそうですが、自然に崩れ落ち、その後にできた尖塔は第二次世界大戦で破壊され、ソ連占領時代の1976年に、現在の尖塔が再建されました。当時、宗教は禁止されていて、観光地の展望台として作られ、エレベーターで72mまで行けます。教会として復活したのは、ラトビア独立直後の1991年です。

 そのすぐ近くに、リーガ大聖堂という、リーガの中心となる教会があります。1212年の創建だそうで、1884年に当時は世界で最も大きなパイプオルガンが設置されました。現在は世界で4番目の大きさだそうで、ソ連占領時代には、コンサート・ホールとして利用されました。この2つの教会は、創建当時はカトリック教会でしたが、17世紀にスウェーデンに占領された時期に、プロテスタントのルーテル教会になりました。

 18世紀に帝政ロシアに占領されたラトビアに、ロシア正教の教会も設置されました。その代表的な救世主生誕大聖堂はラトビア大学本部近くの新市街地にあります。この教会は、ナチス・ドイツの占領期にはルーテル教会に変えられ、ソ連の占領期にはプラネタリウムになり、1990年のラトビアの独立後に再びロシア正教の教会になったそうです。なお、旧市街地には、カトリック教会も、プロテスタントの一宗派の英国国教会も存在します。

ダウガヴァ川越しに見たリーガの旧市街の尖塔。左より、リーガ城、聖ヤコブ教会(カトリック)
聖母受難教会(小さなカトリック教会)、英国国教会、リーガ大聖堂(ルーテル)、聖ペテロ教会(ルーテル)の画像
ダウガヴァ川越しに見たリーガの旧市街の尖塔。左より、リーガ城、聖ヤコブ教会(カトリック)
聖母受難教会(小さなカトリック教会)、英国国教会、リーガ大聖堂(ルーテル)、聖ペテロ教会(ルーテル)

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