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大崎教授の海外駐在記「ラトビア大学駐在記2(4)」

 10月6日に、校舎にもゲストハウスにも、スチーム暖房が入りました。どの蛇口やシャワーからも豊かな温水が出てきます。これは、季節に関係がありませんが。街行く人々は、マフラーに分厚いコートを着始めました。木々の葉は黄色や赤に色づく間もなく、すでに半ばが散ってしまいました。しかし、ヒマワリやダリアなどの花はまだ満開です。

 世界文化遺産の旧市街地は石畳で、樹木はほとんどないのですが、19~20世紀初頭にできた新市街地は、日本ではなかなか見られない大木が至る所に生えています。樫、クヌギ、白樺の類で、朝の清掃前には、枯葉だけではなく、大きなドングリが散らばっています。

 日本とは異なり、街中に大きな木が生えている背景は、道も庭も公園も広いうえに、樹木の頭上を遮る電線がないからです。電線は地下に埋設され、電信柱もありません。とは言っても、幹線道路には路面バスやトロリーバスの架線が張り巡らされているので、全く電線がないわけではないのですが、道の樹木は剪定されずに、伸びやかに育っています。

 昨年住んでいたゲストハウスの周囲は、レンガ造り5階建ての集合住宅地でした。しかし、各建物は、森や林の中に十分な距離を置いて散在していました。今年住んでいるゲストハウスは、一戸建ての住宅地にあります。往時にはモダンだったと思われる、レンガの上に漆喰を塗った古い二階建て家屋が多く、各家庭の敷地は500~600坪以上あります。

 ラトビアの住宅事情を調べると激動の現代史に行き当たります。1991年のソ連からの独立時に、国に没収されていた家屋は元の持ち主に返され、残りの住民にはクーポン券が支給され、住民はクーポン券を元手に、政府が値段を査定した国有住宅を購入したそうです。

 第二次世界大戦時、人口約200万の独立国ラトビアは、ドイツに占領され、ホロ・コーストされた7万5000人のユダヤ系住民を含む20万人が戦禍で死にました。1944年にドイツはソ連に敗れ、ラトビアは臨時政府を樹立しました。しかし、ソ連はラトビアを併合し、臨時政府の首相や全閣僚15人を含む3万4250人を捕え、思想犯として処刑しました。さらに、1949年に12万人をソ連各地の強制収容所に送り、4万3000人をシベリアに強制移住させました。この間、16万人がドイツ、スウェーデンに亡命しています。代わって、ソ連はロシア人を主とした40万人をラトビアに移住させました。この結果、ラトビアにおけるラトビア人の比率は、戦前の77%(146万人)から52%(139万人)に減少しました。

 1991年、ソ連崩壊に伴いラトビアは独立し、各地から生き延びた人々が帰国し、先祖が所有していた住宅に戻りました。一戸建て住宅の住民の多くが、そのような人々です。したがって、必ずしも、一戸建ての住人は豊かな人、と言うわけではないそうです。

 独立後のラトビアは、ラトビア語が話せる人を国民と認定しました。その結果、ロシア系を主とする約30万人の住民がラトビア国籍を取得できずに無国籍状態でいます。彼らが集合住宅地の主たる住人です。2012年に、ロシア語を第二公用語にするか否かの国民投票があり、反対78.4%で否決されました。この時、無国籍者には投票権はありませんでした。

 学生達の話では、最近、良い住宅地を中国人が買い漁っているそうです。住宅地が安価なラトビアを基地にして、ヨーロッパ各地で商売をしているということでした。

左側は1階にゲストハウスのある学生寮の画像
左側は1階にゲストハウスのある学生寮

学生寮周辺の住宅街の画像
学生寮周辺の住宅街