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大崎教授の海外駐在記「ラトビア大学駐在記3(5)」

 10月に入り、ラトビア大学のあるリガの街は、紅葉が始まりました。私の今回の宿舎は、世界文化遺産の旧市街地から、幅約500mのダウガヴァ川を超えて、西に7キロほど行った郊外の新市街にあります。宿舎の出口には最寄りのバス停があり、サテライト・オフィスを置いてある大学本館近くに行くバスは、3つの路線があります。

 宿舎の周囲に生える庭木や街路樹は伸びやかに枝を伸ばしており、日本では見られない大木が沢山あります。特に目を引く大木の多くは、栃の木で、実がたわわになっており、早朝には路上に沢山の実が落ちています。その実を拾って歩く人をよく見かけますが、実の残骸や、大量の落ち葉は、地区の人々が共同で雇った人が、毎日掃き清めています。

 日本語クラスでチューターをしていた山大の学生が帰国しました。この夏は9人の学生が参加しました。今は、リガ工科大学に留学中の二人の日本人男女学生が参加しています。彼らの話だと、地元の学生となかなか友達になれないが、日本語クラスでは、楽しい友人関係ができるからだそうです。8月に山形でのサマープログラムに参加した、ラトビア大学日本語学科のローラさんも、毎日クラスに参加して、初心者の中高生を集めて楽しげです。

 私も、最上級者のグループに対し、日本語クラスを開いてみました。テキストに、ラトビアの人々が著述編集して、それが日本語に訳されている本を用いました。様々な建造物や催し物を、ラトビアやリガの歴史と絡ませながら紹介している本です。

 しかし、その結果、授業は全然進みませんでした。記述されている歴史に対し、皆が皆、異議を差し挟むのです。その記述は違うと英語で大演説をする学生が出てきて、それに聞き耳を立てている同じ部屋の、初級や中級の別のグループの学生からも、私にも言い分がある、と反対意見が出ました。父親がドイツ系だという高校生から、歴史的解釈なんて人の数ほどあるでしょう、という意見まで出ました。

 最ももめたのはラトビアが初めて独立した1918年の記述で、「その日、ドイツ軍の侵攻に対し、ラトビア志願兵が立ち上がり、武器も欠乏するなか、敵をリガから追い払いました」とありました。すると「あの時の志願兵は約70人で、何で6000人のドイツ兵を追い払われるの。しかも多くはロシア系で、ラトビア系は23人だった。」と言う社会人がいました。

 ラトビアの歴史は、周辺諸国に支配された連続で、初めての独立は1918年でした。当時のラトビアは帝政ロシアの支配下にあり、第一次世界大戦の勃発で、帝政ドイツが国内に攻め入りました。1917年にロシア革命がおこり、新政権ソビエトはラトビアを帝政ドイツに譲りました。1918年にドイツに革命がおこり、ドイツは連合国に降伏しました。その時、連合国のイギリス艦船に逃げ込んでいたラトビア人グループが独立宣言をしたそうです。

 しかし、ラトビア国内にロシアのソビエトに支援された政府も樹立され、それに対抗するために連合国の要請でラトビアに居残ったドイツ軍が反ソビエトのロシア軍と結びついて別の政府を樹立し、少なくとも、大国の思惑で支援された3つの勢力が存在したそうです。最後にドイツ軍を追い出して勝ち残った政府は、イギリスの艦船に支援されたグループでした。しかし、1940年に、ラトビアは再びソビエトに併合されます。

宿舎の窓から見た栃の木々。赤い屋根は隣の中学校。の画像
宿舎の窓から見た栃の木々。赤い屋根は隣の中学校。

自由の記念碑。最初の独立戦争で死んだ兵に捧げられている。の画像
自由の記念碑。最初の独立戦争で死んだ兵に捧げられている。