教養教育ってなんだろうか?

山形大学長 仙道 富士郎

 学務部の蜂屋大八君が「授業改善リレーエッセイ」を書いてくれと言って原稿依頼に来た。締め切りを聞くと一週間と言う。「エッ」という感じであるが、なにしろ彼は小生の「山大マインド」の講義の世話をいっさいがっさい面倒みてくれている御仁なので、嫌な顔もできない。「どんなことを書けば良いの?」ということでサンプルをもってきてもらったら、それらはホームページに連載されているらしいことが判明し、それならと、山大のホームページを開いてみると、「山形大学高等教育企画センター」のホームページに載っていた。一回から八回までのエッセイを全部プリントして(小生の世代はやはり紙にしないと頭に入らない)、読んでみた。「学長は暇だなあ」と言うなかれ。法人化後は富に忙しいのである。学者家業を長くやってきた関係で、自分が書くものに関しては、結構神経質なのである。一読して、結構roughに書いている人もいるらしいことが分かり、まずは一安心。そんなに何回も筆を入れることもないかと、Wordで打ち始めた次第。普通はyellow padに書きなぐり、秘書にタイプしてもらい、それを何回も、ときには十回以上も、直す。

 さて、八人の方はそれぞれに、教養教育に対する想いの丈を展開されているが、ドキッとするようなコメントもあった。丸田先生の「現在の山形大学の教養教育は、一般教育が代表者のような顔をしている。----」というくだりがあり、「人間教育」と称して、いわゆる一般教育の奨めを説いている者の耳には痛いお言葉ではありました。もっとも、丸田先生は後段で、しっかりした語学教育の体制を作ることの重要性を説いておられて、全く同感なのだが----。「そんなことを言うのなら、学長早くそういう体制を作れ」などとここでは言わないでね。専門教育に入るための基礎としての、語学、基礎科学の指導が大事であることには全く異論がない。しかし、しかしである。今の若者たちを見ていると、このまま社会に出ていったらどうなるのだろうか、という想いがつのるのである。誰が悪いのでもない。すべては我々(というと、巻き添えにしないでくれという人もいるだろうが)大人が悪いのである。

罪ほろぼしのつもりでもないし、また、短期間のお題目の陳列で、ことがそんなに簡単に解決できるとも考えていない。しかし、なんとかしなければという焦りがあることも事実である。弁解ではないが、そんな想いもあって、「山大マインド」を始めた次第。

 心情吐露の文章になってしまったことをお許しねがいたい。

 ところで、原稿依頼に来たのは、蜂屋君なのだが、彼はリレーエッセイは書いていないわけで、私は誰からバトンを渡されたことになるの?また誰にバトンを渡したら良いの?

 次は理学部の丸山 俊明さんです。


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