外国語教育の将来

医学系研究科 丸田 忠雄 (平成15年度まで人文学部)

 このシリーズでは一般教育科目にかかわるテーマが多いので語学について書いてみたい。筆者が教養教育を受けたのは30年以上も以前のことであるが、語学科目だけはよく勉強した記憶がある。特にフランス語。フランス文学にカブレていたからである。英語では抽選にはずれ極度に不人気のクラスを割り当てられた。物理学者Jacob Bronowskiの難解なエッセイがテキストで、先生も生真面目な面白くも何ともない人であるが、実はこの授業が一番充実していた。英文は歯が立たたなかったが、変に学生にこびる授業より、その潔さが良かったし、難解なものに触れることでオレは大学生なんだ、と幸せな気持ちになったものである。

 さて話題を転ずるが、平成8年に教養部が廃止されたとき、教養教育の外国語教育は10年で危機的な状況に陥るのではないかと不安を覚えたものである。既存学部にバラバラに配置換えされた外国語担当教員が退官、異動後に適切に後任を補充できるかに大いに疑問だったからである。残念ながらこの8年の経過を見てみると不安は的中しているようだ。学部の側からすれば、我が身が第一で、全学という抽象的実体のためというより、自学部の専門教育の充実、あるいは定削の財源に使って何が悪い、ということになる。

 筆者はもともと人文学部にいたが、英語学という専門からか、あるいは人文学部の改組に関わっていた経緯もあり、本意とは言えない形で教養部廃止後の語学教育の責任者、矢盾のような立場におかれた。損な役回りである。全ての語学担当可教員が、専門教育に携わりかつ教養教育の語学も担当するという (あらがい難い) 理念のもと、一人の教員が担当できる専門教育・語学教育のギリギリの仕組みがとりあえず作られたのであるが、それが学部の都合で勝手に食べられていくのである。

 一般教育には上で述べたような心配は全くない。全学に担当者は十分すぎるほどいるからである。かたや語学教育は、首筋寒い一定数の兼任教員がいるだけ。しかしクラス数は多く、非常勤時間も食う。ふと、語学というカテゴリーがなければ大学にとって何とハッピーだろうか、と不遜なことを想う。思うがまま、まだ残っているポストを使いきり、学部専門教育の充実を図ることができ、かつ人件費の大幅な節減も可能である。

 しかしである、いま学生たちに真にもとめられているのは基礎リテラシー、特に英語を初めとする外国語能力ではないのか。それを全学的にキチッと捉えて対応しなくてよいのだろうか、と学内世論の意識の低さを想う。今後の法人化の下での交付金、あるいは人員の削減が続いていく過程で、語学教育を実際に行うスタッフの暗い未来を考えると一切から逃避したくなってくる (と考えるのは筆者一人のみだろうか)。

 教養教育のコアは語学、さらには理数系リテラシー科目に置くべきとするのが筆者の意見である。現在の山形大学の教養教育は、一般教育が代表者のような顔をしている。豊かな幅広い知性も大事だろう、しかし、一般教育の相当部分は、その気になれば読書をすれば身に付くものである (筆者はそうだった)。

 ちょっと筆が滑ってしまったが、いいたいことはこうである。いま、語学教育の安定的体制の確立が焦眉の急であり、そのためには従来の、人文・教育学部にその責任を形だけ委ねるのではなく、語学教育の中枢となる全学的センターが必要である、ということ。学部は自学部の利害で動くことを忘れてはいけない。一定数のポストを人文・教育学部から引き上げて (もともと教養部、すなわち全学のものだった)、「意志のある」語学教育組織を作ることである。

 次は工学部の長谷川 政裕さんお願いします。

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