学生の自己評価はどうなってるのだろうか

農学部 野堀 嘉裕(森林情報学)

 大学ではFDだ自己評価だとか盛んにいわれるようになり、多忙な教員は戦々恐々としている今日この頃であります。最近では教養教育に学生による授業評価が導入されるようになり、さらに複雑な思いをしている教員も少なくないのではないでしょうか。

 アメリカの大学では大分前から学生による授業評価が実施されており、その弊害として教育評価のインフレ現象が起きることが報告されています。この属にいう「教育インフレ」とは「教員が学生の評価をする」ことと「学生が教員を評価する」ことを同時に行うと評価結果がインフレを起こし、両者とも評価が高くなるというものです。この現象について日本語に翻訳された著書もいくつかあります。最近この方式が導入され始めた東南アジアの大学でも同様の現象が起きているようです。インフレが起きた結果、教育やその効果が改善されるわけではなく、低レベル化する傾向があるようです。最悪の場合は評価の低くなった教員の賃金カットまで行き着くようです。

 ここでちょっとシミュレーションしてみましょう。

 学生にとって授業の理解が深まらない状態のままで試験を課して成績を評価をすれば、評価の低下は必至です。厳しい評価をする教員は学生からの評価が低下してしまうことになります。これを恐れるので成績だけ高評価にせざるを得ない、というケースがあります。自分の評価は高くありたいが、学生の理解を深めるために教育レベルを下げる必要はないと考える教員はこの状態に陥りやすいと思います。

 山形大学の教育改善の一環として今年からGPAが導入されるようになり、また学生による授業評価も検討されつつあります。教育インフレを起こす条件は整いつつありますが、悪しき前例の哲を踏むわけにはまいりません。なにかよい方法はないものか、と考えました。その前に、この現象についてよく考えてみると、次のように分解できると思います。

 学生の立場から考えてみれば「良い成績が欲しいと思うこと」と「授業の内容をよく理解しようと思うこと」は矛盾することではありません。教員の立場で考えてみると「授業が良く理解されること」と「学生の成績が良くなること」も何ら矛盾しません。「授業の内容は理解したくないが良い成績は欲しい」と思う学生や「授業は理解してもらわなくて結構だが、自分の評価は高くありたい」と思う教員の解釈は論外なのでここでは度外視して考えましょう。このパラグラフの前半をよくみると「教育インフレ」のひとつの原因は「授業の理解」に対する考え方が学生と教員で一致していないことにあるようにみえます。教育インフレの原因はいくつもあると思いますが、上記の原因は解決できる要素ではないかと思います。

 ここではひとつの考えを提案してみましょう。

 それは学生が自分の試験やレポートを自己評価するシステムをつくることです。レポートによる採点を例にとると、学生がレポートを提出するときに自己採点をした上で提出する仕組みです。講義の内容の理解が完全なら全員が満点で提出してくることを教員は予想します。学生の立場だと完全に理解していないと思っている分を割り引いて自己採点することになるので、60〜100点の範囲で自己評価することになるわけです。レポートの記載項目や採点基準を工夫して、何が理解されていないのか分析できるようにしておけば更に授業改善が出来るかもしれません。

 ただし、この案が完全でないことは一目瞭然です。先ほど論外とした「授業の内容は理解したくないが良い成績は欲しい」と思う学生の自己評価は尊重できないし、何を理解していないかという点が把握できないケースが生じるからです。ちなみに、初回のFD研修会に参加した後、当方の講義課目でこの方式を導入してレポートを課したところ、45人中2名が60点未満の自己評価で提出してきたことがあります。これはいったい何を意味するのでしょうか。授業を聴き知識を深めることは吝かでないが単位は要らない、ということなのでしょうか。今のところ詳しい分析はできていません。

 最後に、「授業改善リレーエッセイ」の「エッセイ」の部分だけに偏って取留めもなく書きましたので、乱文であることをご容赦下さい。

 次は教育学部の須賀 一好さんお願いします。

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