講義内容と講義方法と

教育学部 須賀 一好(国語学)

 数年前のカリキュラムの改定によって、私の国語学の授業を受講する学生層も多様化した。学生の側も、いろいろと細切れでやらなければならないことが多く、ゆとりを持って継続的・段階的に学習することが難しくなっているようである。それに加えて教える側の私も、国語学の教員が二人から一人になってしまったこともあり、授業内容を再編成せざるを得なくなった。現在はそういう状況なので、今の私にとっては、授業で何を提示するべきか、どういうレベルで説明をするべきか、題材はこれでよいのかというような授業内容のほうが大事な問題であり、なかなか授業方法の改善にまで頭がまわらないでいる。

 しかし、そういう状況ではあるけれども、私も授業方法に思いを巡らし、FDについての報告書を読んでみたりもする。読んでみると、いろいろと工夫された授業方法の実践や提案が書かれていて、なるほどと感心させられることが多い。最近では、講義の中間に小休止の時間を入れ、その時間を利用して学生からの質問に答えるという講義方法の提案があった。それには他にも、講義の最初に小テストを入れたりするなど、学生に緊張感を持たせる工夫が紹介されていたが、私は、小休止の試みを自分の授業に取り入れてみることにした。講義形式の授業をするときに、途中で学生の反応が鈍くなったり居眠りする学生が出たりすることがあるので、その点を改善したいと感じていたからである。まだ、試みて間もないので、時間の配分に失敗したり小休止することを忘れたりしているが、やってみる価値はあるのではないかと思っている。

良い方法は、多くの人が共有するべきである。しかし、良いとされている方法ではあっても、そう簡単には自分のものにはならない。試しに実行しても、その方法は、やはり人のものであって、自分のものではないように感じることもある。結局は、自分の経験に根ざした問題意識の持ち方が、授業方法の改善の方向性を決めていくのではないだろうか。マニュアル化された知識が効果を発揮するのは、授業内容が学生に通じないといったことがないようにするための、ごく基本的なレベルでの問題にとどまるものである。講義を構成する要素のあるべき状態を組み合わせてマニュアル化し、講義方法の標準化を図る試みを否定するものではないが、それが効果を発揮するのは限られた種類の授業であろう。授業の善し悪しは、総じてその授業を受けて良かったかどうかが重要であって、その授業の個々の側面すべてにわたって優れている必要はない。大事なことは、授業の目的が学生と教師との間で共有されていることであり、講義の世界に学生自身が主体的に入り込むことである。大学では、もちろんある程度の必要条件をクリアーしなければならないが、講義ごとに多少のデコボコがあっても、それを個性として楽しむゆとりが必要ではないかと思う。

 次は仙道学長の特別寄稿です。

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