ディベートに対する偏見

人文学部 立松 潔(日本経済論)

 専門の演習の授業(日本経済論演習)にディベートを導入してから5年目になる。今年は、教養教育でもディベートを取り入れた授業を開始した(日本社会の解剖)。いずれも学生の反応、教育効果は上々であるようだ。何よりも学生達がグループで授業外に集まって勉強に取り組む機会が増えること、そのため学生同士の結束が高まり、授業の雰囲気が良くなることがありがたい。

 専門のゼミでディベートを導入したきっかけは、平成12年(2000年)後期の授業が始まって間もない頃、3年生の(まじめな)学生から、「ゼミでディベートをやりませんか」と言われたことである。
 何を隠そう、私はその時までディベートがどういうものかを、実はほとんど知らなかったのである。しかし、幸運にもその年の8月にたまたま『北海道大学FDマニュアル』なる冊子を入手し、そこに授業改善の例としてディベートが紹介されていたのを、私は知っていた(まだ読んではいなかったが)。学生の話に対し、「なるほど、ディベートはゼミの活性化に良いかも知れないね」などと、即座に肯定的な返事をしたのは、言うまでもない。
 とは言ったものの、自信があったわけではないので、学生が帰った後でさっそく北大の冊子を探し出して読んだところ、授業に導入する意味は十分ありそうである。そこで、さらに何冊かディベート解説書を買い求めてにわか勉強し、なんとか12月にはゼミでのディベート実施にこぎ着けたのであった。

 北大のマニュアルを入手したのは、その年の夏に小田隆治さん達と教養教育研究委員会(現在の教育方法等改善委員会)の調査旅行に行き、北大の高等教育機能開発総合センターを訪れた時であった。すでに北大で授業改善の一例としてディベートが導入されていることを知らなかったら、私も授業に取り入れようとは思わなかったかも知れない。そういう意味では、貴重な調査旅行の場を提供してくれた同委員会に感謝しなければならない。

 教育ディベートの有用性はすでに昔から欧米では常識となっているが、日本では意外に偏見が根強く、普及の妨げになっている。これは最近、教養教育の改革についての学内の議論を通じても痛感させられたことである。茂木秀昭『ザ・ディベート―自己責任時代の思考・表現技術』(ちくま新書、2001年発行、680円)は、冒頭から、日本においていかにディベートが誤解されてきたかを明らかにしている。たとえば、司馬遼太郎はディベートを「鷺(さぎ)を烏(からす)と言いくるめる技術です」と紹介しているし、ここまで極端な偏見でなくても、ディベートを「相手をやりこめる攻撃的な技術」であると考えている人はまだ結構多いのではなかろうか。

 そもそも日本の教育は戦前から「読み・書き」中心で、「口頭によるコミュニケーション能力」の育成には不熱心だった。寡黙を貴ぶのは日本人の国民性だという人もいるが、国際化の時代にそのようなことでは通用しないであろう。
 私が学んだアメリカ人によるディベート解説書で印象的だったのは、民主主義社会の担い手の育成という視点が貫かれている点であった。同書の第1章(ディベートの意義)の最後の文章は特に印象的である。

 「ディベートの技能があれば、それだけで良い市民が生まれるわけではない。しかし、筋道を立てて効果的に話すことのできないアメリカ人は、発言権をもたない市民となり、その人の優れた考えも群衆の中に掻き消されるか、決して聞かれないかである。したがって、ディベートはあなたにとって、また、社会のとっても高い価値を持つものと言えるのである。」(ジョン・M・エリクソン、ジェームス・J・マーフィー、レイモンド・バッド・ゼウシュナー『ディベートガイド―基礎からのディベート―』渓水社、2000年、1200円)

 日本の教育現場にもディベートの導入が進み、論理的な思考方法と紳士的な議論の方法を身に付けた青年達が育っていくことを望みたい。

 次は理学部の尾方 隆司さんお願いします。

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