日本語ディベートを教養科目でとりあげて

教育学部 江間 史明(社会認識教育学)

 今年度(2004年度)の前期、教養教育で「教育をディベートで考える」という授業を行った。シラバスでは、「日本語ディベートを楽しみながら、議論の作法を身につけ、教育などの社会的争点についての理解を深めましょう」とよびかけた。

 教養科目で日本語ディベートをとりあげるのは、3回目くらいだと思う。これまでせいぜい30名前後が熱心に受講するくらいだった。だが今年度は、60名近くが登録し、50名前後が最後まで熱心にディベートにとりくんだ。小中学校の教科書にも登場し、何らかの形でディベートにふれるという経験をしている学生が多くなったせいかもしれない。

 ディベートは、一言でいえば、審判に対する説得力を競うゲームである。ある論題について、肯定側と否定側に機械的に(例えばくじなどで)分かれ、一定のルールにしたがい、審判が勝ち負けを判定する。

 こうディベートを説明すると、青年会議所や看護師さんなどの研修で私が講師をするときには、何の問題もおこらない。はやくディベートやろうよ、という雰囲気である。

 ところが、こと学校関係ないし教師という人たちを相手にするときは、このへんで、額に、むずかしそうな「しわ」がよってくる。「えっ?どうして肯定と否定に、しかも機械的に分かれるの?本音で話せばいいじゃない。それにどちらかの立場を決められないこともあるんじゃないの」「勝ち負けを決めるって、何それ?話し合いに勝ち負けがあるの?」

 だいたいこんな「不信」というか、胡散臭いものを見るような眼差しがよせられる。いずれも、まったくの誤解である。それぞれ丁寧に説明する。(ここでは省略)

 教養の授業の話にもどろう。この授業では、実際にディベートの試合を繰り返し行い、ディベートの発想と技術(ナンバリング、ラベリング、反駁の四拍子、引用やメモの技術)を学生が身につけることを到達目標としている。半期の授業で、マイクロディベート(3人1組になり、肯定・否定・審判の役割をそれぞれ交代でつとめる)で4〜6試合。4人でチームを組んで行う試合を4試合行う。半期で学生1人がそれぞれ8〜9試合を経験する。まずは「量」である。日本語で思考するのだから、その日本語を思考の手立てとしてきちんと使えるようにしたいということである。

 たとえば、「君の意見は?」と聞かれたときに、印象や感想を言うようでは物足りない。「意見」は、主張と根拠で構成される、ということがわかっていて、使えなければしょうがない。また「反対意見は?」と言われて、内在的な「論証」型反論と外側から別の主張をする「主張」型反論の区別ができなければ、水掛け論になってしまう。身につけてほしいのは、「かみあった議論」の作法である。

 以下に講義で試合をするなかで、学生が書いたコメントを、一部、紹介したい。
「また負けてしまいました。なぜ勝てないのでしょうか?くやしいです。試合はいい感じで進むのですが、最後の最後にいつもやられているような気がします。次の試合は、しっかり作戦を練ってがんばりたいと思います」
「だんだんディベートに慣れてきて、最近はこの授業をおもしろいと感じています。特に反駁を考えるのが楽しいです」
「今日は、肯定側の時は立論、否定側の時は質疑と第二反駁を担当した。どちらの場合も自分の担当をしっかり果たせたと思う。それに自分が100%言い切れてもジャッジに100%伝わるとは限らないし、それで100%勝てるわけでもないとわかった。もっと話せるようになりたい」
「やはりゆっくり話してくれた方がいいと思う。根拠が多いのはいいのだが、それを3分で話そうとすると、(早口になって)聞き取りづらい。自分達の立論の時には注意したい」
「ジャッジをやってみると、話し方や反駁の仕方の反省点が見えました。自分達が試合をしていても、ジャッジのように冷静に試合を見ることが大切なんだと思いました」

 ディベートという活動の形式が、学生にとって、大きな魅力と教育効果を生み出すことを指摘できる。(もちろん、ディベートという活動は総合的なものなので、もっと、ある内容のリサーチや理解の方に重点をおいた利用の仕方も考えられよう。)

 学生主体型の授業のあり方が、授業改善のテーマとしてかかげられている。週1回の教室の中でも、ディベートのような活動の形式を導入すれば、十分、学生が主体的にとりくめる授業にすることはできる。フィールドにでたり、発表会を企画したりという、大掛かりな「しかけ」は必ずしも必要ない。学生がのめりこんでくるコンパクトな活動のスタイルの開発が大切であるように思う。

 次は人文学部の中村 三春さんお願いします。

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