分かることと疑問を持つこと

人文学部 阿部 成樹(美術史学)

 現在、終盤とはいえ夏休み中。授業のことなどいちばん考えたくない時期にこのような原稿を書くのは、正直言ってつらい。などと言い訳を考えて引き延ばしているうちに、驚くべき時間が経ってしまった。遅まきながら最近感じていることを書いてみたい。

 学期の授業が終わると試験を行う。その答案を採点していると、思わず脱力するような内容に出会うことがある。誤解が基本的な点だと、やはり考え込んでしまう。私はどう考えてもそんなことは言ってない。だが目の前の答案は、明らかに聞いていたにもかかわらず、こんな誤解をしている。いったいあの時間の私の仕事は何だったのだ…

 何年経っても授業に慣れるということはない。特に講義の前は、相変わらずかなりのプレッシャーを感じる。それでこういうことがあると、いったいどうしたものか悩んでしまう。やはり最低限、基本的なことは正確に理解してもらいたい。

 だがおかしなもので、あまり素直に聞いてほしくない、と(特に授業中に)感じている自分もいる。こちらが言ったことをあまりそのまま聞かれても困る。できれば、疑問を持ってほしい。そんな感じを授業中に持つこともあれば、あまりにも素直な答案を読んだときに感じることもあるから厄介なのである。

 このことは、パソコンを使って授業をしてみていっそう感じるようになった。今の学生は高校からパソコンによる資料提示に慣れているし、人によっては自らそれを使って発表もできる。そのせいかどうか、聴講の態度にどこか緊張感が欠けるような気がしないでもない。と学期中に思っていたのだが、答案を読んでみて、さらにその感じが強まった。どんなやり方にも欠点があるのだろうが、どうやら「授業のプレゼン化」の副作用は、あまりにも口当たりよく内容が流れて行ってしまう点にあるのかもしれない。

 正確に分かりやすく伝えることと、おやっと思わせること。矛盾しているのかいないのかよく分からないが、両立がそう簡単でないのは確かなようだ。この先も学生を眺め、答案を読みつつ模索するしかないようだ。

 次は教育学部の長井 健二さんお願いします。

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