授業を見せる

人文学部 渡辺 将尚(ドイツ文学)

 意図したわけではありませんが、山形大学に赴任してきてから、履修している学生以外の人たちに授業を見せる機会が増えました。以前勤務していた高専では、初任者研修としてベテランの先生に参観してもらったことはありますが、結局はそれ一回きりでした。授業を見せる機会が増えたのには、2つの理由があります。

 まず、昨年4月から、私のドイツ語の授業の一部をビデオで撮影してもらい、インターネットで公開し始めたのが最初の理由です。どれも30分程度ですが、これまで7回分を収録しています。このビデオは、私の授業の宣伝としていろいろな人に見てもらっていますが、現在、もっぱら授業を履修している学生たちに復習として自宅で見るように言っています。何人かの学生は、たびたび見てくれているようですが、実際どれくらいの数かは正確にはわかりません。公開し始めたことによって、授業が格段に変わったわけではありません。ただ、カメラがあることで、自分の「立ち位置」は考えるようになりました。黒板の文字にいわば「かぶらない」ようにするためです。

 もうひとつの理由は、今ドイツ語教官全体で行っている「ミニ公開授業」のためです。毎年数回、ドイツ語の教官同士でおたがいの授業を見合う機会を作っています。

 しかし、私には、実はそれ以外にも授業を見せる機会が舞い込んできます。友人・知人たちです。私固有のキャラクターのせいもあるのでしょうが、友人・知人によく「授業をしているところを見せてほしい」と言われます。よほど、私が授業をしている姿が想像しにくいのでしょう。いずれにせよ、過去数回、教官以外の一般の人に見てもらいました。 友人・知人たちの感想はまちまちですが、私自身のことについてはあまり触れられません。本人を前にして、直接は言いにくいのかもしれません。だいたいの感想は学生に関するものです。しかもそのほとんどは肯定的評価です。「学生さんたちはまじめに授業聞いてたね。」「当てられても、ちゃんと答えてたね。」

 ところが、そのように言う人には真実が見えていません。後ろから見ている参観者には見えなくても、教壇からはよく見えるものです。授業に出ている学生のうちの数名は確実に寝ているのです。学生には、誰に見せる場合でも、その授業の最初に参観者がいることを伝えます。私のほうでも、いつもより余計にがんばってみたり、前の日からアイロンがけをして、普段は着ないスーツを着て望んだりするのですが、見ている人がいようといまいと変わらない学生は変わりません。意図しなかったこととはいえ、授業を見せる機会があるというのは、授業改善にとってたぶん重要なことなのでしょう。ただ、たまに――ごくたまにですが――「おまえらのためでもあるんだぞ、わかってるのか」と叫びたくなることもあります。

 次は地域教育文化学部の川辺 孝幸さんお願いします。

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