静かな教室

農学部 粕渕 辰昭(農地物理学)

 話していく言葉が、教室にしみ込んでいくのがわかるときがあります。シーンとして静かなだけではない。学生諸君に、理解され、納得され、ある意味で感動のようなものが彼らから伝わってくる。そんなことが、これまでに何回かありました。決して多くはないのですが、それでも年に2〜3回はあったように思います。とくに、教員生活を始めて、授業が不慣れな時期にむしろ多かった記憶があります。

 特に、変わったことを話したわけではありません。突然、それを感じて、「エッ、どうしてこんなことで」と、こちらが内心慌てることもありました。ふり返って、それには、いくつかの理由がある(あった)ように思います。相手に一生懸命に伝えようとしていた、彼らが思ってもいない情報を知り得た、彼らの未来が深くかかわっていた、など。

 しかし、最近は、学生君同士のおしゃべりで教室がざわつくことはあっても、こんな経験が少なくなってきたように感じていました。昔に比べて話すのには慣れてきました。OHPからパワーポイント、あるいはビデオ映像と、いろいろな方法を取り入れるなど、授業の工夫もしてきました。冗談も時に言うことがあります。それなりに、応答はあります。「判りやすかった」、「面白かった」など。でも、"感動"が十分与えられない。どうしてなのだろう?

 それは、多くは私の側にあると思っています。慣れ、マンネリ化、高踏的態度、相手に合わせずノルマのように授業を進める、多忙さのための準備不足。

 今年度になり、授業にかける時間が少し取れるようになりました。そして、つい先日、あの"静けさ"を久しぶりに経験することができました。

 ルイ・アラゴンの「学ぶとは、心に誠実を刻むこと、 教えるとは、共に未来を語ること」。言い古されてきた言葉かも知れませんが、こうでありたい、とあらためて思います。あと残り短い教員生活ですが、感動のある授業を少しでも多くできたら、と思っています。

 次は人文学部の今野 健一さんお願いします。

左側にメニューページが表示されていない方はこちらをクリックしてください。