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トップ > 特別寄稿(山大卒業生の先輩からのメッセージ)
150億光年の彼方にある理想に夢と希望を託して |
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立花 和宏さん (岩手県花巻市出身) S60.3 工学部応用化学科卒業 S62.3 大学院工学研究科修士課程修了 現在 山形大学学術研究院(理工学研究科担当)准教授 「安くて近くて入れるところ」、それが山形大学を選んだ理由でした。少年の頃、仮面ライダーに憧れたのは良かったのですが、ケンカは弱かったので、「将来はヒーローよりも科学者かエンジニアが良い。」と漠然と思っていました。学科を選ぶ段になって「受験勉強をしなくていいや!」と面接試験のみであった工学部の応用化学科へ入学しました。
米沢の下宿で同じ釜の飯を食べた先輩方の部屋には、酸っぱい臭いの立ち込める写真現像の暗室があったり、廊下の白熱電球が点滅するほど、やたら出力の大きいアマチュア無線装置があったり、機械油にまみれて自転車と歯車やらスポークやらが散らばっていたりして大いに薫陶を受けました。少年の頃に見ていたウルトラマンの影響で、研究室はレーザー光線を使っているという応用化学科第一講座を希望して配属されました。当時のアルバイトはプログラマーでした。バイト代で当時最先端であったオートフォーカス一眼レフカメラを買いました。もっぱら撮る側にまわりましたので,自分が写っている当時の写真はありません。研究室では理工系の知識よりも人間関係について学ぶことが多くありました。 そうこうしている間に、就活の時期になり、恩師に向かって「化学はもう飽きた。」などと大見得を切るものだから生意気盛りだった訳です。もっともそれがきっかけで大日本印刷株式会社に入社しました。そして、当時市場が急成長していたディスプレイの研究開発に携わりました。製造現場でお客様に提出する試作品を流すのにコンベアの下に段ボールを引いて一夜を明かしたり、特許庁閲覧室に赴いて朝から晩まで明細書をめくったり、クレームに対応するために営業の方とお客様のところへ説明にお伺いしたり、その営業担当が企画した社員旅行で上高地へ行ったり、とまあ普通の会社員としての生活を楽しんでいました。
そんな折に「恩師から母校へ戻ってこないか。」とお声がかりがありました。もともと論文を渉猟して、したり顔をするようなタイプではありませんでした。母校への奉職を決めたのは、「大学は精神的に自由であらねばならない。」という恩師の言葉でした。それを深く受け止めて大学に勤務しました。あの頃は、まだ若かったと言わざるを得ません。恩師は理想を語ってくれましたが、現実は理想と程遠いものでした。少々くたびれてきた今となって分かるようになりました。いつも理想と現実の間には、150億光年ぐらいの距離があるものです。かといって、夢と希望を捨てるのは、人間として最も愚かな行為です。人生いろいろありますが、毎日笑顔で暮らすために、先輩・後輩それぞれの立場で幸福を追い求めてみませんか?
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