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「山形大学フォークダンス愛好会の思い出」 山内 靖夫 さん (埼玉県行田市出身)
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昭和32年の卒業から61年が過ぎた。学生時代は半世紀を超えた昔に遠ざかり、今更ながら光陰矢のごとしを実感している。 山形大学のフォークダンス(FD)は、昭和20年代の後半、文理学部の笠原栄氏が中心となり、文理・教育学部の男女の有志が集まって始まった。 昭和29年、山形大学フォークダンス愛好会と名称を定め、文理学部の高山悦郎氏が委員長となり、田中菊雄教授(英文科)を会長に迎え、笠原氏を顧問として新たにスタートした。 FD 愛好会は山形の一般市民にも開放したので会員は一時200名位に上った。娯楽、スポーツ環境の乏しい当時にあって、FD はお金のかからない新鮮で健康的な若い男女のスポーツとして広く関心を呼んだ。 ただ、食糧難時代だったので、われわれの一番の悩みは空腹で、よく女子寮(現、紫苑寮)の学生に残りご飯をおにぎりにして持ってきてもらった。 昭和29年(1954 年)9月、私が米沢に移ることになり、笠原、高山氏の要請もあって、白楊寮の吉田昭彦氏の協力を得てフォークダンス・サークルを立ち上げた。 大きな課題は女性会員の募集であったが、教育学部OBの我妻美保子、吉田三保子さんの協力を得て、多くの米沢女子短大生や女性市民を会員に迎えることができた。 翌昭和30年秋、山形の愛好会で活躍した最上不二男、佐久間義信、竹村章、渡辺憲一郎、松田曙覧氏らがシニア進学のため米沢にやってきた。 これを機に、フォークダンス・サークルを解消し、米沢女子短大と一般市民の参加した山形大学工学部フォークダンス愛好会を設立した。 当時、米沢には市教育委員会主催のフォークダンス・グループしかなく、若い学生中心のフォークダンスの会は多くの市民からも歓迎された。 工学部FD 愛好会は山形の愛好会から物心両面の支援を受け、米沢女子短大民族舞踏部と連携して活動範囲を広げていった。 会員は100名を超え、毎週の練習会はいつも盛会であった。 さらに、東北大学や福島大学のFD クラブとの交流を図り、交歓パーティーもしばしば開催した。この後、数年間がわれわれのフォークダンスの最盛期であったように思う。 昭和32 年以降の工学部FD 愛好会と女子短大民族舞踏部の活動は、両者の合同機関紙「FOLK」(1996年)の「あゆみ」の項に詳しく載っている。 両者はある時期から一体となって積極的に活動を展開したが、時の流れに抗しえず会員の減少が続いた。 そして平成10年(1998年)頃に、工学部FD 愛好会、米沢女子短大民族舞踏部ともに解散したようである。 山大工学部FD愛好会が昭和29年の発足以来44年でその歴史的役割を終えたと思うと感無量のものがある。 一方、山形の山大フォークダンス愛好会も、記録は手元にないが、この前後に解散したものと思われる。 フォークダンスは昭和30年頃の時代を背景にしたわれわれの青春そのものであった。 街には飲み屋と映画館はあったが、パチンコ屋はなく、車もなく、喫茶店が珍しかった時代である。しかし、思えば何か心の豊かな時代であった。 なお、平成11年、昔の仲間たちで「山形大学工学部FD 愛好会OB・OG 懇親会」(世話人 下記)を作り、工学部と女子短大の旧友と2年に一度温泉で再会、昔のフォークダンスで旧交を温めながら80歳の青春をかみしめている。 ◆「山形大学工学部FD 愛好会OB・OG 懇親会」 世話人: 水田 毅 工学部電気工学科 昭35年卒 鈴木 利子 (旧姓 林) 米沢女子短大 昭34年卒
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