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TOMCATS創部時の苦労話  佐藤 潤(昭和56年工学部化学工学科卒)

 山形大学アメリカンフットボール部TOMCATS創部時のメンバーだった佐藤潤さんから、創部時の様子について寄稿いただきましたので紹介します。
                      

昭和54年 東北工業大学のグラウンドで。No.65の後ろで顔が半分見えるのが
佐藤さん(写真提供 鈴木良清さん(昭和56年工学部化学工学科卒;写真右端))


  私が山形大学に入学した昭和52年(1977年)、出身地の関西では大学スポーツの一番人気はアメリカンフットボールで、関西学院大学と京都大学の黄金2強時代でした。また、アメリカンフットボールのユニフォームの番号が大きく印字されたファッションが流行ったりして高校生の憧れのスポーツの一つでもあり、実家が関西学院大学の近くだったこともあり、大学に入ったらアメリカンフットボール部に入りフットボールをやろうと思い描いて入学しました。
 ところが、残念ながら山形大学にアメリカンフットボール部はなく、それでは何か他の部活をと、高校までやっていたテニス部と音楽で大好きなジャズの興味からJAZZ研究会に入りました。その時は何気なく入った部活でしたが、同じくJAZZ研究会に入った、当時としては珍しい(今でも珍しい存在かも)関西出身のI氏がいて、やはり彼もアメリカンフットボールに興味があり、それでは部活を立ち上げようと行動を開始することとなりました。しかし、まだアメリカンフットボールの認知度は山形大学では低く、どのように部員集めをするのか、部の顧問は、資金は、などの問題が立ちはだかりました。
 まず人集めの為には同好会でなく、正式な大学の体育会の部として登録することでステイタスをと思い、部活登録に必要なことが、顧問となる教授探しです。しかしアメリカンフットボールに興味のある教授を見つけるのは非常に難しく最初から暗礁に乗り上げるかと思いましたが、I氏が理学部で、その理学部校舎の前で、偶然昼休みにアメリカンフットボールのボールでキャッチボールをしているT教授を見かけたところから、話が進みT教授の承諾を得ることが出来ました。
 次のハードルが部員集めでした。ご存知の方もいらっしゃると思いますが、アメリカンフットボールは、その競技の特性上、部員が最低でもレギュラーとして22名が必要であり、また山形大学は、小白川キャンパスだけでなく、医学部、農学部、工学部と分散してキャンパスがあるのでPR活動をどうするかなど難問がありましたが、とりあえI氏や同じくJAZZ研究会の同僚のN氏の協力を得て、部員募集のポスターとその説明会の開催を小白川キャンパスで行いました。それにはI氏が所属していたスキー同好会や私が下宿していた先輩の人文学部のO氏の所属するバトミントン部、JAZZ研究会と仲の良かった軽音楽部のメンバー、私の工学部の教養課程のクラスのメンバーの協力で説明会のPRを行った結果、説明会には大勢の人に来て頂くことが出来ました。また、その際に部員として登録していただいた方が24名と当初の予定を上回ることができました。
 人数が集まると次は資金です。アメリカンフットボールは、全てのポジションでボディコンタクトがある格闘技で、しかも細かいルールはあるもののボディコンタクト部分は全身対象になります。当然身を守る防具が必要で、その費用は当時の価格で一人当り10万円、それに練習用具としてサンドバックや練習用パット、ボールなどで総額300万円ほどの見積となりました。こればかりは貧困学生に初期費用として負担することは無理でしたので、その当時、私の親父が退職したばかりでもあり、退職金から借りることで了解を貰いました。
 その次がその部材調達です。現在ネットで注文など非常に便利ですが、山形ではスポーツ店でアメリカンフットボールの用具の取扱はほとんどなく、仕方なく帰省した時に大阪のミズノ本店に行き調達、発送などの手配を滞りなく済ますことができました。その時には下宿先の先輩達が、関西旅行も兼ねて同行してもらい心強かったのを覚えています。
 最後の難関が組織作りです。部員だけでなく、いろいろな庶務的な業務を行ってくれるマネージャーが必要となります。そこでJAZZ研究会の同僚のN氏、I氏の理学部のクラスメイト2名がマネージャーを引き受けてくれました。
 それら皆さんの協力のお陰で無事立ち上げることが 出来ました。その後I氏がバイトしていた所にたまたま 山形にある社会人チームの方がおられ、練習試合をしていただき、その模様が山形放送で放送され立ち上げて良かったと思ったことを覚えています。また、その社会人チームの方々が日大郡山の出身者が多く、その紹介もあり東北学生リーグに所属し本格的な活動に繋がりました。
 この一連の創部活動で苦労したかと考えると、実はいろいろな人に助けていただき一緒に立ち上げたというのが実感です。何をするにも仲間としての人の繋がりが重要であることを体感し、それが後の社会人生活を送る上での私のポリシーにもなりました。出会った人に感謝する気持ちを忘れず、末永くお付き合いを続けたいと思っております。

    

山形大学グラウンドで。(写真提供 松山正弘さん(昭和57年農学部
農業工学科卒;No.75))


現在のアメフト部の練習風景