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人文学部 高階 悠輔

歴史の多面性を学んだリトアニア

留学先:リトアニア共和国・ヴィリニュス大学
期間:2013年9月 〜 2014年8月

11世紀に歴史の表舞台へその名を現したリトアニアは、北海道ほどの大地におよそ300万の人口が居住する、バルト海沿岸に位置する小国である。ポーランドとの連合国家体制により東欧有数の大国として名を馳せたリトアニアは、その運命を大国の思惑に左右され続けてきた。16世紀にはポーランド分割によりロシア帝国に編入される。戦間期には束の間の独立を手に入れるが、間もなくナチスドイツによる占領、そして長きに渡るソヴィエト連邦による圧政の下に組み込まれた。再びnation stateとしての立場を獲たのは1991年。ヴィリニュス市中心部・ルシシュケス広場に仁王立ちしていたレーニン像が倒される瞬間は、世界中で繰り返し報道されたため、記憶に残っている方もいるだろう。
 ソヴィエト連邦の瓦解と独立の回復、それから20余年を経たリトアニアの姿を知るべく、私はこの地への留学を決めた。

 私が留学したヴィリニュス大学は、リトアニアの首都・ヴィリニュスに位置する歴史ある大学である。1579年、ポーランド・リトアニア連合体制下で創設された。ポーランドの国民的詩人アダム・ミツキェヴィチや、ノーベル文学賞受賞者のチェスヴァフ・ミウォシュなどが卒業生として名を連ねている。
 授業は、リトアニア・東欧地域の歴史や政治に関するものを主に受講した。「リトアニアにおける全体主義者の犯罪」という歴史の授業では、第二次大戦期の独立喪失からソ連崩壊までの、虐殺や強制労働などといった政治・人道問題を扱った。ナチスドイツによる占領や、ソ連による虐殺・シベリア追放などが主題だが、リトアニアにおけるホロコーストというトピックは非常に興味深いものであった。ナチスドイツによる占領期に、リトアニア人によってユダヤ人の虐殺が行われたというものである。リトアニアでは共産主義からの解放という名目下で、対ソ連パルチザンをはじめとした多くのリトアニア人がドイツに協力した。また「北のイェルサレム」と呼ばれるほど中世以来多くのユダヤ人が居住していたリトアニアにおける身分の差(金融業に従事し裕福なユダヤ人と、農工業に従事し貧しいリトアニア人)という構造的な部分もホロコーストに影響をもたらした。一般に大国間政治の「被害者」とされるリトアニアの意外な一面を知ることができた授業であったと思う。
 リトアニア語の授業も印象に残る。古代印欧語族の特徴を残すリトアニア語は、サンスクリット語との関連もあることから、生きた「言語の化石」として学術的にも注目を集めているらしい。そんなことも知らずに履修した訳だが、実際に学習してみると非常に難しい。単語の格変化を覚えられず苦悶の毎日だったが、いざ街に出て使ってみると、案外伝わるものである。毎日新しい単語を覚えていくうちに段々と生活圏が広がっていく感覚は、非英語圏ならではのものではないだろうか。クラスにはポーランドやドイツなど近隣諸国の学生の他、韓国やインドネシアなどアジア圏の学生もおり、それぞれの国の話題をリトアニア語で話すなど多文化交流の場でもあった。今後山形でリトアニア語を使う機会はほぼ皆無となりそうだが、忘れてしまわないように今後も学習を続けていきたい。

 学習以外では、教会でのボランティアを行ったことも忘れがたい。週に3日カソリック教会で運営する、児童のデイケアセンターで手伝いをさせてもらった。リトアニア語が満足に話せない中、どれほど役に立つことができたのかは疑問だが、リトアニアでは珍しい極東顔の外国人である私が、子供たちにとっては何かしらの刺激にはなっただろうと思う。なにより私自身が、子どもたちからリトアニアの伝統や流行っている子どもの遊び、キックやパンチから汚い言葉まで様々なことを教えてもらった。
 家庭環境に問題のある子どもたちを対象としているこのセンターの活動は、善悪の判断から、友達と仲良くすることの大切さ、食事のありがたさ、規律・約束を守ることなどの基本的なことを、聖書の教えを通して子どもたちに教授する。そのなかで「個」を大切にする方針が散見され、キリスト教的価値観について考えさせられるところもあった。
 リトアニアはヨーロッパの中でも比較的敬虔なキリスト教国である。大学の卒業式は教会で行われ、独立記念日のような国の大きな行事でも大聖堂でのミサは欠かせない。毎週日曜のミサは、老人から子どもまで、世代を超えて祈りを捧げる形が未だに残っている。若者の宗教離れが進んでいるとされるヨーロッパにあって、この姿は今後も大切に残してほしいと思うものだった。

 また留学中は、都市間バスやLCCを利用して、ヨーロッパ各地をバックパックで旅行した。地続きのヨーロッパにあって、外国というよりは、隣県に赴くような感覚だった。独立問題に揺れたスコットランドや、極寒の中で車中泊をしたアイスランド、未だ情勢の安定しないウクライナや、紛争の爪痕残るボスニア・ヘルツェゴヴィナ、スペインのトマト祭りなど、多くの地で、自身の眼で見た経験は何物にも代えられない。
 光陰矢の如しとはこのことだろう。1年の留学は想像以上に短かった。海外に行ったからといって、毎日がスペクタクルの連続というわけではない。しかし時頼、日本にいては想像もつかないことが起きることもある。結果として、得たことの多い留学であった。

 最後とはなったが、本留学を多方面に渡り支援していただいた山形大学校友会の皆様には、心から感謝したい。

人文学部 高階 悠輔 人文学部 高階 悠輔