山形大学での32年を振り返って(1988-2020)

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プロフィール

樋口 浩朗(山形県山辺町出身)
平成5年3月 人文学部法学科卒業
現在:山形大学エンロールメント・マネジメント部上席専門員
   山形大学校友会事務局長 兼 山形大学基金事務室長

昭和63年(1988年)4月に山形大学に入学した私は、卒業後そのまま山形大学事務職員となり、昨年(2019年)4月、山形大学校友会事務局長を拝命した。折角の機会なので山形大学での32年を簡単に振り返ってみたい。

山形大学入学

山形南高校では私立文系志望だった。多くの友人同様、東京の私学への憧れをもっており、山形大学には魅力を感じないというか、入学できると思っていなかった。それが、3年次担任のS先生と母親が“結託”して共通一次を受験させられ、結果的に人文学部法学科に補欠合格して山形大学に入学した。振り返れば、この入学が私の人生とキャリアの大きな転換点となった。

学生時代

学生時代は昼頃キャンパスに現れ、夕方までテニスをし、夜はバイト(家庭教師、イベント準備、遊戯店等)をして帰宅という生活。教養教育には魅力を感じず(大後悔)、1年次にS教授の「生物学」を落とし、早々の留年が決まった。留年してからは同学年の友人と疎遠になり、成績はますます下降した。

一方、3年次から所属した北川忠明助教授の「政治学原論ゼミ」では3人(!)のゼミ生らと自由闊達な議論を展開したり、硬式テニス部の活動で岩手大学や新潟大学との定期戦に出かけたり、夏冬に合宿したりと、学生らしい活動を満喫した。ちなみに、のちに結婚した妻は人文学部文学科で同じ硬式テニス部に所属していた。

4年次末に入学時の友人たちが卒業すると、急に焦燥と挫折を感じた。遅ればせながら学費負担してくれた親への罪悪感も。以来、“何が何でも公務員になってやる”と猛烈に(自己評価)公務員試験の勉強を始めた。結果、第一志望の地方上級(山形県)には落ちたが、国家Ⅱ種にはなんとか合格することができた。

ただ、安心するのはまだ早く、卒業するためには刑法の単位を取得する必要があった。それも2科目(刑法総論・刑法各論)。それも過去2回落としており、公務員試験以上にプレッシャーのかかる勉強を強いられた。5年次後期の単位認定試験当日は、朝から大雪で大渋滞。1コマ目の試験に遅れそうになり、途中で車を乗り捨て、教室まで走った。結果はなんとか単位を取得し、学士(法学)の学位を授与された。このときの辛さは、後年たびたび夢の中で再現され、担当だったK理事(当時は教授)に話したら大笑いされた。


硬式テニス部時代

山形大学採用

国家公務員の中でも、文部事務官になろうとは微塵も思わなかった。いくつかの官庁を訪問して某庁での仕事に魅力を感じたが、父に反対された上、山形大学への就職を勧められた。この反対はまったく想定外だったが、留年の後ろめたさもあり素直に従った。

こうして平成5年(1993年)4月に母校山形大学に採用、工学部経理係に配属された。担当は収入と旅費計算、3年目は外部資金受入を任された。初めての独り暮らしは、当時米沢キャンパス近くにあった木造一戸建の林泉寺職員宿舎。冬期には屋内に雪が積もるほどの旧い建物で、仕事はつまらなく感じていた。

世界一周出張

採用3年目に転機が訪れた。工学部の小山清人教授(現;学長)から、約1ヶ月間、アメリカ、イギリス等の大学を調査(外部資金受入状況調査)する世界一周出張を命じられた。私はこれで目覚めた。自学や自国の情勢を分析し、プロフェッショナルな仕事に誇りを感じている欧米の大学職員を知り、日本の大学職員としての仕事にも大きな可能性が秘められていることに気づいた。

この出張は小山教授が長年温めていいた企画で、たまたま私が係員のとき実現した(「職員が教員と対等になるためには、教員と同じだけの広い視野を持つ必要がある」と考えて、国際会議の折などに樋口を連れ歩き、海外の経験を積ませた)中井浩一著『大学「法人化」以後』p394)。提案いただいた小山教授と、事務職員初の世界一周出張を決断していただいた結城利男事務長と佐竹正行係長には伝えきれないくらい感謝するとともに、リーダーとしての先見性と決断の大事さを学んだ。


小山教授(右)と@英国

文部省転任

「大学職員の可能性」に気づいた私は、文部省への転任を希望した。世界一周出張を経て、山形大学職員として母校に貢献したい想いを強くした一方で、“ならば将来貢献できるような経験を山形大学外で積もう”との意識が強くなった。

文部省での3年間は海外子女教育課で日本人学校関係の仕事をした。派遣教員の給与を送金したり、日本人学校の「危機管理マニュアル」を作成したり。当時発生した「在ペルー日本大使公邸占拠事件」や「ジャカルタ暴動」で末席ながら危機対応を経験できた。大学に直接関係する業務ではなかったが、文教行政の中枢で、知識・意識・ネットワーク的に質の高い経験を積むことができた。

最初から3年と決めた転任だったが、最終勤務日は昼過ぎから涙が断続的に溢れ、帰りの山形新幹線内では号泣してしまったことが忘れられない。

なお、文部省転任1年目(27歳)に結婚し、長男も誕生した。また、当時の上司の影響で始めた皇居ジョギングは、今に続く“最重要趣味”の発端となった。


文部省海外子女教育課時代

中国留学

山形大学に復帰した私は事務局庶務部に配属され、研究支援と国際交流の仕事を担当した。いわゆる全学のとりまとめにやり甲斐を感じていたが、それ以上に“国の中枢は経験した、次は外国だ”の意識が強くなっていた。そんな中、「中国政府派遣奨学金留学生(行政官)の公募」が目にとまった。

既に昇龍の萌芽があった中国に1年間留学できる、しかも国費で。「本気か?」と訊く齋藤秀昭事務局長には「本気です」と答え、直属の矢口清係長は快く許可していただいた(今思えば自己中係員だった)。懸念があった妻は「いいんじゃない」と即答。こうして平成12年(2000年)7月、妻と2人の子(同年5月第二子誕生)を残して、約1年間の吉林大学留学が始まった。

振り返れば30歳の若気の至りで渡航してしまった感はある。実際、留学当初は酷かった。年下の日本人留学生のサポートがなければ何もできなかった。それでも徐々に毎日の生活にも慣れ(午前中は漢語班での講義、午後は朋友との相互学修等)、中国語を学びながら様々な国の学生と交流するとともに、発展著しい中国のダイナミズムを体感できた。

帰国直前には妻と長男を北京に招き、長城や天安門広場を観光できたのも良い思い出。


留学時代の留学生証とテキスト

国立大学の法人化対策

中国留学中の平成13年(2001年)5月、ネットニュースに衝撃を受けた。参院本会議での小泉首相答弁「国立大民営化に賛成」。翌6月には文部科学省が国立大学の「法人化」や再編統合を明記した「大学(国立大学)の構造改革の方針(いわゆる「遠山プラン」)」を公表した。

“これは大変なことになる!”の思いを抱き7月末に帰国した私は、上記「遠山プラン」をはじめ、法人化や教育学部の再編統合に関する情報収集を命じられた。翌年4月には総務部内に「法人化対策室」が設けられ、最年少担当として配属された。当時の様子は、この「卒業生からの寄稿コーナー」の前稿で当時の上司である黒沼毅さんから「情報収集に長け、理想を掲げて新しい海に乗り出そうと考える若手職員」と紹介いただいている。黒沼さんには若気の至りをぶつけてしまったが、いつも優しく、そして熱く指導いただいた。

国立大学協会出向と修士(大学アドミニストレーション)

平成16年(2004年)4月、山形大学を含む全89国立大学は「国立大学法人」となった。私はこれに合わせて(社)国立大学協会(以下「国大協」)に出向した(3年間)。職場は東京・一ツ橋、宿舎はさいたま市。今回は家族4人で引っ越した。

山形大学内で“対策”した法人化を見届けず出向したのは、国大協の新しい機能に魅力を感じたからだった。定款にはこう書いてある。「各国立大学法人が実施する教育・研究及び社会貢献に関する多種・多様な活動において、質の高い成果を挙げるための環境作りを行い、もって国立大学法人の振興と我が国の高等教育・学術研究の水準の向上及び均衡ある発展に寄与する」

新生国大協の事務局には全国の国立大学から同年代の若手職員が十数名集められ(当時私は35歳)、文字どおり、国立大学法人が「質の高い成果を挙げるため」切磋琢磨した。当時の幹部以下の“闘う国大協”の姿勢は、今でも理想的だと思っている。

国大協への出向と同時に、桜美林大学大学アドミニストレーション専攻(通信教育課程)に入学した。これは、前年の山形大学事務職員研修(SD)での提案が認められたもので、大学職員としての専門知識を体系的に学ぶことができた。ちなみに修士論文のテーマは「国立大学協会の存在意義」、指導教員は潮木守一教授。授与された学位の修士(大学アドミニストレーション)は、その後のキャリアの精神的・継続学習的な支えとなっている(平成21-22年度度科学研究費補助金「奨励研究」の連続採択はその成果だと思っている)。

山形大学の基本理念と将来構想

国大協出向から戻った私は企画部に配属された。提案・担当したのは3つ。「山形大学の基本理念」、「将来構想」、そして「結城プラン」。「基本理念」の制定は法人化対策室時代からの悲願だった。

法人化前の山形大学には学則上の目的規定はあったが私立大学のような“建学の精神”がなかった。文科省傘下の大学行政執行機関として、特に必要ではなかった。法人化して、単なる執行から経営が求められる国立大学には当然必要だと考え、ドラッカーの『マネジメント』やコリンズの『ビジョナリー・カンパニー』なども参考にしながら、大学構成員全員の行動規範となるような“不変の基本理念”を制定したかった。

その後、「中期目標・中期計画」が第2期から第3期へ移行するのに伴い「将来構想」は改訂され、学長・理事の“マニフェスト”としての「結城プラン」は小山学長になって「Annual Plan」として引き継がれた。「基本理念」は“不変”への道半ばといったところか。

大学コンソーシアムやまがた

平成21年(2009年)1月、新設の「大学連携推進室」に配属された。当時採択された文科省の「戦略的大学連携支援事業」と「大学コンソーシアムやまがた」を担当。この時期は、業務上、県内外の大学や高等教育機関との連携が格段に進んだ。

県内全ての高等教育機関と山形県が加盟する「大学コンソーシアムやまがた」については、それまでの事業評価をした上で、組織や事業をゼロベースで見直した。その結果、「最上川学」など、その後の基盤教育に繋がる科目が創出されたり、山形駅前に「ゆうキャンパス・ステーション(ゆうステ)」と命名した学生の“たまり場”ができたりした。

平成23年(2011年)3月11日に発生した東日本大震災後は、「ゆうステ」を臨時避難場所として市民に開放するとともに、東北芸術工科大学と山形大学の学生が発案した被災地派遣ボランティアバス「スマイルエンジン山形」の活動拠点となった。さらに、宮城教育大学、福島大学そして山形大学の関係教員が協働で学生向けテキスト『災害復興学入門』を刊行した。

この頃から業務の一環で山形大学での取組を他大学の事務職員研修等で発表する機会が増え、今に続く貴重な人的ネットワークを構築できている。


スマイルエンジン山形

学部事務の経験

平成24年(2012年)4月からの3年間と平成28年(2016年)4月からの2年9ヶ月間にそれぞれ人文学部事務室と工学部研究支援課で学部事務を経験した。それまで意図的にキャリアデザインしてきたこともあり、学部事務の経験は工学部採用時の3年間しかなかった。「樋口に学部事務を経験させろ」の声があったとも聞いている。

人文学部事務室では総務担当として、教授会など会議運営、教職員採用、イベント開催などの基本的な事務のほか、ペルー国ナスカ市に建設した「人文学部附属ナスカ研究所」の視察や、学生の台湾語学研修の引率など、人文学部ならではの経験もできた。

工学部研究支援課では、採用時以来の外部資金受入において、その変貌ぶりに驚いた。組織的に大規模かつ複雑で、なにより国や企業等からの研究資金の受入が凄まじかった。また、副課長としてはじめて管理職に就き、プレイヤーだけでなくマネージャーとしての意識と行動を心がけた。

人文学部では、ある懸案事項について「樋口さんがなんとかしてくれる」と教員が言っていたと側聞したり、工学部では就職内定した学生がわざわざ事務室まで報告に来てくれたりした。両学部での経験で、大学の根幹は教員と学生であることを強く再認識することができた。


送別会@工学部での寄書

山形大学の見える化

「山形大学の見える化」を意識するようになったのは法人化前後からだろう。当時、(旧)国大協や一部学協会が独法化反対を世間に訴えていたが、ほぼ無反応。法人化後も年々削減される運営費交付金の拡充を求め、政治家を含め様々訴え続けてきているが、芳しい成果はない。

要するに、社会一般の大学に関する興味関心は低く、税金振り分けという政治上の優先順位も低い。これはひとえに大学のことを知らないからと思う。卒業したら終わりで、自分の家族が入学する大学以外には関心ないと。

以来、「山形大学の見える化」を意識してきた。「大学コンソーシアムやまがた」ではTwitter、人文学部と工学部時代はfacebookやLINEなど、急速に普及してきたSNSを活用し、平成25年(2013年)1月からの1年間は、広報室で全学webページをリニューアルや学長定例記者会見を担当した。強調してきたのは学生・教員の活躍。それが結果的に山形大学の社会貢献に繋がり、市民の山形大学を見る目が変わってくる。

ファンドレイザーとして

平成31年(2019年)2月、山形大学初の「ファンドレイザー」辞令があり、校友会と山形大学基金を担当することになった。「ファンドレイザー」という職種は、10年ほど前にアメリカ東部のイエール大学やプリンストン大学等の同窓会調査時に知った。非常に興味深く、山形大学でも必要だと役員等へ報告していたが、正直忘れていただけに、辞令には歓喜した。

日本ファンドレイジング協会によると、ファンドレイジングとは、 ①NPO(民間非営利団体)が、活動のための資金を個人、法人、政府などから集める行為を総称していう。 ②単なる資金集めという目的を超えて、寄附により市民の社会参加を促進し、「社会に変化を生み出す」ための活動。

ファンドレイザーについては、 ①団体や活動の魅力の発信力を高めて、外部から経営資源を集めることができる人 ②組織や財源の強化を通じて、活動や組織を成長させることができる人 と定義している。

私は現在50歳。学生として5年、事務職員として27年、山形大学にお世話になっている。これまでの山形大学での経験を活かし、かつ、さらに学び続けながら、山形大学の活動や魅力を発信し、山形大学の組織を成長させる「ファンドレイザー」になりたい。

現在進行形の“おわりに”

簡単に振り返るつもりが結構な長文になってしまった。山形大学での32年間は、多くの友人、先輩、同僚、先生方や学生たちに支えられてきた。勿論、家族の決断や寛容がなければ今の私は存在しない。現時点で感謝の意を表したい。

でも、まだまだ山形大学でのキャリアは続く(はず)。気力・体力は若干衰えたけど、よりプレイフルに!「前向き 外向き 自然体」で!


筆者

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○個人ブログ:「前向き 外向き 自然体」

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