【卒業生寄稿】母校を人生のインキュベーターとして 山形大学で得た宝物

掲載日:2020.12.15

プロフィール

矢口 敦則(山形県出身)
昭和60年3月 工学研究科高分子化学専攻修了
現在:一般社団法人 人財開発支援協会認定講師

山形を慕い想う

 山形交響楽団の「ベートーベンの交響曲第5番運命」の演奏をテレビで聴いた。コロナ禍のなかでの渾身の演奏は心に響いたが、私には、番組の冒頭、「他にはない山形交響楽団の魅力は何か。」とたずねられた団員が発した言葉が心に残った。
 「山形市は周りを山に囲まれていて、春の新緑から、夏の木漏れ日、秋の落ち葉、冬の雪の上を歩く感触と常に自然と共存しているので、それらの感覚が団員の音楽づくりのなかに備わっている。」
 この想いは、まさに、私が故郷山形県で過ごしていた記憶・懐かしさと寸分違わぬものであった。そして、その演奏を聴きながら、コロナ禍のなかで生活している故郷の人々の心情・気概に思いを馳せ、「運命」の曲のなかに、表題のある「田園交響曲」のごとく山形の風景や祭の情景が次々と頭の中をかすめていた。
 そう言えば、数年前、田町で開催された校友会の集りでいただいた絵ハガキの題材は、小白川キャンパスの四季の変化を写したものだった。昨年の夏、小白川キャンパスを訪ねた際、夏をモチーフにしたその絵葉書に写っていたパティオ様相の小洒落た中庭で休憩し、秋の絵葉書に描かれた堂々たるイチョウ並木を散策した。40年の歳月を得ても、私を包み込んでくれる優しさと学び舎の威厳に暫し浸ることができた。
 現在私は、東京23区に隣接する埼玉県に自宅があるが、就職するまでは、山形県内の4市に住んでいた。親戚も、多くの友人も暮らしている。冬場、東北地方の日本海側に寒波の予報があると、どうしても屋根の雪や、交通の障害のことがとても気になる。私の身体はどうも山形の季節の変化に適用するようにできているようで、首都圏に引っ越して暫くは、冬場の陽の眩しさに感覚が乱され、空気の乾燥によると思われる鼻血にどうも居心地の悪さを覚えたものだ。


最上川源流、火焔(ひのほえの)滝
 米沢市 2020年

自然好き、山好き

自然に親しむ会

 周りを山に囲まれて過ごし、四季の変化が好きだった私が、どこのサークルに入ろうかと考えあぐねいていたところ、工学部のK君に誘われて部室を訪ねたことがきっかけで、「自然に親しむ会」に入会することになった。そして私の大学生活の前半は「自然に親しむ会」抜きでは語れないものとなった。
 そもそも私が大学で登山を始めたきっかけは、高校時代の修学旅行にまで遡る。当時の修学旅行の行先は京都・奈良が定番だったが、先生方がもう関西は飽きたという理由で、さらに上高地と高山が加えられた。京都から名古屋(このとき新幹線に初めて乗った。)、更に中央西線で松本市内の観光を経て、夕方上高地に着いた。そして河童橋から梓川とその奥の白い峰々の堂々たる佇まいに唖然とし、早速売店で写真集を買い求め、その写真集をホテルのベッドで夜中まで眺めていた。そして「もし大学に合格したら山登りのサークルに入る。」と決めた。そのとき上高地から眺めた穂高(奥穂高~西穂高)を数年後に縦走することになるとは思ってもいなかった。
 私の自宅には、父が使用していた、キスリングと飯ごう、ピッケルそして米軍の払い下げと言われていた羽毛(ダウン)ではなく羽根(フェザー)がたっぷり詰まった布団並みに重いシュラフがあった。そんなことから、山登りに対する憧れが摺りこまれていたのかも知れない。
 当時の「自然に親しむ会」には小白川と米沢、鶴岡併せて、総勢100名近く在籍していたように記憶しているが、現在はどうであろう。現役のみなさんには是非、学生時代にしかできない体験を大いにしてもらいたい。小白川では、四季折々の様々なイベントを楽しんだ。『渓流』という当時ガリ版刷りの会報を毎年発行していたが、実家に預けたつもりがいつしか紛失してしまった。惜しいことである。
 多くの山行のなかでも、大学2年次の夏合宿は圧巻であった。健脚者が企画したコースは、早月尾根から剣岳を登り白馬岳を経て糸魚川まで登行するコースであった。つまり3000m級の岩場を登り600mまで下り3000m級を登り返し、そのまま日本海まで下り泳ぐという長大な(当時の私の体力からすれば無謀に近い)計画だった。出発時ザックの総重量は38kgもあり、途方にくれた。残念ながら(幸いなことに)、2度の台風による停滞を余儀なくされたため、食料が底をつき、白馬岳の先にある蓮華温泉にルートを変更した。下山後に食べたカツドンとます鮨をつまみに飲んだビールの味は、今でも忘れがたいものがある。


夏合宿、仙人池から八峰を望む
 富山県立山町 1980年

 米沢に移動し暫くすると、授業が忙しくなってきた。教職課程もとっていたため、長期間の休みには青年心理学や測量などの集中講義があったので、メインの行事である夏合宿にも参加できなくなった。そのため「自然に親しむ会」の行事とは次第に距離を置くことになり、単独又は数名で吾妻連峰をはじめ、朝日連峰、早池峰、尾瀬、谷川岳などに通うことが多くなった。
 山に行っていないときは、先輩の下宿によく入り浸たっていた。そこには、1年上の高分子系、機械系、電気系の先輩たちがおり、よく面倒をみていただいた。今では音信は絶え絶えであるが、それぞれ、東京、メキシコ、福島でご活躍されておられる。
 「自然に親しむ会」では、山での生活、料理、仲間や自然との関わり、会の運営等々様々なことを経験させていただいた。まったく頭が下がる。これらの学生時代の経験は、社会人になっても続く登山に役立つことになった。


沢登り(朝日連峰入リソウカ沢)
 西村山郡朝日町 1981年頃

仕事の合間の登山

 就職して最初の勤務地は千葉県の東京湾岸のコンビナートの一角であった。当時、週末には千葉駅発の特急「あづさ」が運行されていたので、内房線の始発電車に乗り千葉駅で乗り換え、東京や山梨の低山を巡り、帰りに新宿の居酒屋で一人で反省会をし、終電で帰った。
 首都圏にいると、富士山に登りたいという方が多いことに驚かされる。近年、登山用品店には初心者向けの富士登山セット(ザック、登山靴、合羽等の一式)が販売されており、昨年まではバスツアーも盛んであった。私も社内旅行で富士登山を企画し、職場の有志と一緒に登った。
 しばらくすると、矢口は山に登るらしいと知られ、職場の先輩、後輩、更には同業の化学会社の研究所や経営企画部の皆さんと一緒に、秩父、武蔵、谷川、尾瀬、八ヶ岳、アルプスにでかけるようになった。秋口に思いもよらぬ降雪に遭遇したり、突風のため飛ばされそうになり避難小屋からザイルで確保してもらいながら外に用を足しに行ったことなど、とても焦ったこともあった。


八ヶ岳
 長野県茅野市 1990年頃

 冒頭に書いた、奥穂高岳から西穂高岳への縦走は、農学部の同期K君と行った。奥穂高岳の近くにあるジャンダルムを越えると、信州側、飛騨側とも切り立った崖(ナイフエッジ)になっている。普段ならある筈の鎖がそこには無いではないか。肝を冷やしながらどうにか岩にしがみつきながら縦走した。昨年このルートが、「日本一難しい縦走路」としてテレビで紹介されていた。当時は情報も少なく、国土地理院や昭文社の地図だけが頼りだったが。ヘルメットやロープを持参すべきであった。


黒部渓谷下廊下(しものろうか)十字峡
 富山県中新川郡立山町 1993年

これからの登山、自然との付き合い

 山高きが故に貴からず、木有るを以て貴しとす。(実語教) 
 湿原の池塘に映る碧空や、ハイマツとライチョウの親子に感動したりする傍ら、自宅の近くを流れる荒川の上流や玉川上水のせせらぎにも安らぎを覚える。また近所には、23区で最大規模の都立の水元公園もあるので、日頃は身近な自然に親しめることが多い。まだまだ体力があるつもりであるので、かつて行き損ねた栂海新道や、何度登っても晴れたことがない剣岳にものんびり行ってみたいと思っている。
 将来、もし叶うのであれば、現役の「自然に親しむ会」の学生の皆さんと一緒に山形県の名峰に若返り登山をしてみたいものだ。

研究から研究職へ

大学時代

 専門の講義を通じ、レオロジー、粘弾性に興味をもったので、高分子化学科の物性を研究する講座に入った。その年に米国から帰国した恩師の増子先生から、無機の高分子材料の研究を薦められた。研究対象の物質は合成する必要があっため、図らずも、合成、物性、構造解析と幅広く実験をすることができた。新しいものに対する好奇心は旺盛であったので、恩師からは多方面にわたり懇切丁寧にご指導いただいた。当時の高分子化学科の建物は不夜城と言われ、夜中でも思う存分実験をすることができた。今から見れば数世代も前の電子顕微鏡やエックス線回折装置かもしれないが、与えていただいたからには、結果を出さないわけにはいかない。観察・測定・解析に夢中になり、写真の現像に暗室に篭り続けたこともとても懐かしく思い出される。
 合成講座の先生にアドバイスをいただいたり、ガラスで実験器具を作っていただいたり、後輩と一緒に研究の進捗を確認したりと、忙しいなかにも有意義な時間を過ごすことができた。当時厳しいと評判だった恩師と、研究の方向性を摺り合わせることは緊張の連続でもあったが、企業での勤務もご経験されている方だったので、在学中のアドバイスは卒業後も大いに役立った。
 また、恩師の知人である高分子の構造研究の第一人者の小島氏に、高分子の単結晶の作製方法をご指導いただいたことも忘れられない。小島氏は、恩師の米国時代の知人で、無機の高分子材料の研究をされる傍ら、国内の企業でも研究をされ、その豊富なご経験から後に山形大学でも教鞭をとられた。
 私自身はコツコツ時間をかけて納得しなければ次のステップに進めないタイプであるため、のんびり研究に寄り添っていただいた恩師をはじめ多くの皆さんに感謝申し上げる次第である。


恩師増子先生(右)、小島先生(左)
 神奈川県横須賀市 2017年

 修士2年のときには、高分子学会東北地区若手研究会が主催する、夏季ゼミナールの幹事役を担うことになった。その時の招待講演にお招きしたお一人が、筑波大学の白川英樹先生。まだワープロもなく、万年筆で依頼状を書き上げた記憶がある。やり取りは全て手紙の時代であった。演題は「導電性高分子化合物の物理と化学」。後年ノーベル化学賞に輝く「ポリアセチレンの発見」を含む大変興味深く、示唆に富んだ講演内容であった。
 若輩ながら「これってすごいことじゃないか。ノーベル賞級の研究ではないか。」と周囲の方たちと興奮気味に話した覚えがある。そして、偶然の発見と謙遜されながらも、執着心をもって実験・観察することの大切さを改めて思い知らされた。


学会の一コマ
 宮城県刈田郡蔵王町 1984年

企業の研究職

 就職した会社では、開発部に配属され、大学時代と類似の物質を研究することになった。驚いたのは私の研究予算金額が学生の時と桁が違っていたことだった。早速、実験室やガスボンベ庫を設計し、実験器具を調え研究を開始した。毎年メンバーも増員され、数年後には10件以上の特許を出願し、新規化学物質として厚生省(当時)と米国の食品医薬品局に実験データを提出のうえ、大量生産の許認可をいただくことができた。
 研究チームをまとめ、そして他社の担当者と開発した新規化学物質の用途開発を推進する醍醐味を堪能できたが、やがて研究より組織のまとめ役の仕事が多くなってしまい、自らのアイディアで好きな研究をすることができなくなってしまった。


情報収集
 米国イリノイ州シカゴ市 1991年

研究職を離れ

 いつしか、海外駐在を経て、関係会社を含む経営企画、営業、法務・知財、総務と職種は大きく変わった。新たな仕事を知らないメンバーとすることに最初は戸惑いを覚えたが、会社の組織は有機的に関連しているのでどの職場でも前職での経験を少しでも役立てることができたと思っている。


クリスマスツリー点灯
 米国ニューヨーク州ニューヨーク市 1991年

山形大学を人生のインキュベーターとして

 変な話ではあるが、還暦を迎え、世の中がよく見えるようになってきたような気がする。なにも大局的に全てが見渡せるとか多くのことが分かるようになったわけではない。私の小さな経験の中で、昔のことはよく覚えているし、先のことを少しは考えることができるようになってきている気がするのである。
 大学入学を間近に控えたある朝、母が私に「何のためにあなたを大学に行かせようとしているかわかるか?」と聞かれた。突然の問いに戸惑っていると、「それは、一生付き合える友達を得るためであり、その人に出会うため。」と続けた。
 母は戦前赤十字の看護学校を、戦後助産婦の学校を卒業した。当時の同窓生とはとても仲が良く、毎年の同窓会をとても楽しみにしていた。そんな母自身の経験もあり、そのようなことを言ったのかと当時は思った。いみじくも現在私の知人の多くが山形大学の関係者である。恩師をはじめ、学科・研究室の同窓生、自然に親しむ会の仲間達など、最近はzoomで知り合った山形大学の学生さんも含まれている。
 数年前からは同窓会の手伝いをさせていただいている。年代も職種も立場も異なる方々が、同窓というだけで集うことができる米沢工業会や校友会が存在することは素晴らしい。そこで知り合った気の置けない方々(教官、大学職員の方も含む)との語らいや交流からは毎回、鮮度の高い情報が飛び交っている。
 同窓会は、単なる親睦会に留まらず、卒業生個々人の社会経験を活かすことにより、大学・学生にとっても魅力的な存在であり続ける努力が必要と考える。また大学側には、研究の成果が世間から注目され、優秀な学生が集まることで、更に深化した研究ができる好循環を期待したいものである。
 6学部あっての山形大学。今後もその総合力に期待したい。大学で学びつくし、経験し、出会ったことは、やがて人生の糧や道標となる筈である。しかし、卒業直後は仕事や家庭や新たな出会いが多く、それらを捌くことに時間を費やすことになる。私自身もそうであった。忙しいことは百も承知のうえで言いたい。『目の前の事案に真剣に取り組むことは勿論大切だが、だからと言って大学時代に得た宝物を塩漬けにし続けるのは真にもったいない。少なくともいつかは宝箱を開ける用意をすべきだ。』
 時間と空間とを超え、出会った恩師や友人とは生涯語り合い、寄り添える仲間となることを信じたい。卒業生同士のみならず大学関係者も含めて、損得勘定だけではない強い関係が醸成されることを期待したい。そのような観点から、校友会の近年の活動には大変心強いものを感じる。
 私は、学生時代はもとより、卒業してからも、山形大学のインキュベーターのフィールドで育まれている。就職してからは一人の社会人として歩んできたつもりであるが、ふと山形大学を思い出すにつけ、サイズが一回り大きくなったそれに入っているような気がしてならない。それにどっぷり浸かるととても居心地が良いのである。卒業生の特権であろう。
 ホームカミングデーで、卒業生向けのインキュベーターを用意いただき、当時の研究室で使用した薬品、油そして現像液の香りをエッセンシャルオイルとして、モーターやガラス器具の奏でる音色を子守歌として横たわり、吾妻のそよ風のもとで若い頃の夢をみてみたいものである。卒業してもますます頼りがいのある母校であり続けてほしい。


ハイキング
米国カルフォルニア州ヨセミテ国立公園 2013年

最後に

 科学的なデータと人文知の見地の融合により、COVID-19の感染症軽減の施策が功を奏し、本来の山形大学の活動が早期に復活することを切に願うばかりです。
2020年12月記