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「ご縁」がつなぐ山形ライフ

   小林 一善さん(福島県福島市 出身)
   平成10年3月 人文学部法学科 卒業
   現在:株式会社パナナ 代表取締役



1998年頃 まぐまぐの創業者の大川さんと飲んだときに彼が書いた絵と私

 私は平成6年(1994年)4月、山形大学人文学部法学科に入学しました。出身は、奥羽本線つながりの福島県福島市。踏切が実家近くにあったので、山を越えてやってくるかつての「特急つばさ」も、冬には全面に雪を貼り付けて走ってくる赤いEF71やED78などの電気機関車と50系客車の勇姿も目にしていました。そんな環境だったので、昔から漠然と、山の向こうの「山形」というものを私の中のどこかで感じていたのかもしれません。

 福島の高校(当時は男子校)を卒業して、縁もゆかりもない土地で一人暮らしを始めました。ちなみに私は、高校時代からチェロという楽器を弾いていた(管弦楽部に所属していた)ので、サークルも「山大フィルハーモニーオーケストラ」に入りました。このサークルでは、医・工・農など他キャンパスの先輩方とも多く交流することができました。特に、当時医学部生だったT先輩には、全国の医学部生で構成するオーケストラに特別に誘っていただくなど、とてもお世話になりました。彼が卒業してからはもう何年もお会いできていなかったのですが、「山形まるごとマラソン」の開始を契機に、ここ数年はほぼ毎年、山大前の給水所で「ランナー」と「ボランティアスタッフ」という関係で再会することができています。

 また、大学1年の秋頃から、大学近くのコンビニ(今はもうない)でバイトも始めました。大学2年になってからは、パソコンの家庭教師のアルバイトも始めました。どちらも、今の私にとっての重要な経験となっています。前者は、酒屋が母体のコンビニだったので、山形の日本酒も豊富に陳列されていました。父親が日本酒好きだったこともあり元々お酒には興味があったので、その銘柄とラベルを見て、またお客さんの購買傾向などをみて、どれが売れ筋でどれが美味しいお酒なのかを漠然と勉強をしていたような気がします。後者は、完全に今の仕事の礎となっています。当時はインターネットが普及し始めた頃だったので、ITバブルの流れとともに、企業のホームページの作成のアルバイトなども徐々にするようになってきました。
 
  サークル活動は、大学3年になる直前に辞めてしまったのですが、アルバイトはどちらも続けていました。私自身、特に就職活動はしなかったので、卒業後も当時のバイト先から外注として仕事をいただいたり、プロバイダの電話サポートの仕事をしたり…いわゆる「個人事業主」として何年間かは過ごしました。もちろん、コンビニでのバイトも続け、店長からは商品の発注作業なども頼まれるようになってきました。

 そして平成12年(2000年)10月、仲間たちとお金を出し合って(出資して)現在の会社を立ち上げました。この時も、とある歯科医師の方がオーナーとなって私達を支援してくださいました。現在、創業メンバーは私しか残っていないのですが、その歯科医師の先生とは、今でも公私ともにお付き合いをさせていただいております。私の歯の治療だけでなく、あるプロスポーツ選手とのご縁をつないでくれたり、学会関係のお手伝いをしたのをきっかけに他の歯科医師の先生方とのご縁をつないでくれたり、本業以外の部分でもとても助けていただいております。もちろん、本業の方でも良い方々に巡り合うことができ、お客様からの紹介で新しいお客様に巡り合わせていただいたりしながら、ついには公的機関のお仕事もさせていただけるようになりました。また数年前からは、山大小白川キャンパス周辺の飲食店・商店・金融機関などの皆様ともご縁をいただき、学生時代から私を育んでくれた地域の振興にも、微力ながらお手伝いをさせていただいております。

 また、子どもたちが大きくなるにしたがって、PTAや地域の活動にもお誘いをいただくようになりました。それまでは全くと言っていいほど接点がありませんでしたし、あっても妻に全て任せていたのですが、ある時、同じ地区に住んでいる同年代のYさんからたまたま町内会のソフトボールチームへ誘われました。私自身、小中学校時代はソフトボール・野球をしていたので、あの頃の気持ちが蘇り、早速グローブを新調し練習に参加したのでした。私の住む地区では、小学校のPTAでも球技大会種目としてお父さん方はソフトボールをやっているので、もちろんPTA関係からも声がかかるようになってきました。長男が小3の時でした。そこからPTA役員を仰せつかるようになり、長男が小5のときから2年間PTA会長をさせていただくことにもつながりました。またそれと時期を同じくして、地元町内会の夏祭り実行委員にも選ばれたりして、町内会長をはじめ地域の重鎮の方々とも交流ができるようになってきました。

  このように、人生の半分以上を山形で過ごしている私ですが、様々な方との「ご縁」があってこそだと、最近強く思うようになってきました。新しい世界に飛び込んだり、新しい人間関係を構築したりすることは確かに大きな力が必要です。ですが、そこをエイヤッと乗り越えたところに新しい「ご縁」が待っていて、そこから、予想もしなかった新しい未来が切り開かれていくのではないかと、自分自身の経験からも感じています。元は縁もゆかりもなかったこの地ですが、今ではこの地のために何ができるかなど自分なりに探しながら、この地での生活を楽しんでいきたいと思っています。



小学校PTA会長時代 運動会で赤白両チームを応援するために自作したジャージ