山形大学校友会
山形大学校友会事務局
 (山形大学エンロールメント・マネジメント部)
 〒990-8560 山形市小白川町一丁目4-12
 TEL 023(628)4867 FAX 023(628)4185
 
山形大学校友会活動状況
山形大学オフィシャルサイト交通アクセス・地図

『未来は我等のものなり』

   藤巻 正之さん (新潟県上越市出身 出身)
   平成11年3月 教育学部中学校教員養成課程 卒業
   現在:山形大学生活協同組合 専務理事

 第二次ベビーブーム世代の私は、バブル崩壊後の平成5年に新潟県立高田北城高校を卒業し、浪人時代を経て平成7年に山形大学教育学部に入学しました。大学入試センター試験の翌日が阪神淡路大震災、一般後期試験合格発表日の前日が地下鉄サリン事件と、世紀末を感じさせる災害・事件が起こった年でもありました。
 平成7年は山形大学にとって「教養部最後の年」でもあります。1年次は教養部に在席し、2年次から教育学部中学校教員養成課程技術科に進学します。中学校教員養成課程技術科は、中学校技術一種の免許を取得することが主たる目的の科です。中学校技術の授業では「日本のものづくり」のベースを学ぶと言っても過言ではありません。我々はそう自負して教育学部1号館裏の「工場」で学んでいました。その頃の中学校はまだ男子は技術、女子は家庭科と別々に学んでいた時代でもあったため、技術科は男所帯で「技術家」と名乗るほど結びつきの深い科でした。その中で学んだのは、河合康則先生の『百聞は一見にしかず。百見は一試にしかず』です。社会人になって20年経ちますが、いまだに「やってみないとわからないこと」が多いなと思います。私の中でとても大切な言葉として携えています。
 技術科は平清水に農場と圃場を持っており、農業実習や田植え稲刈りも行いました。秋には収穫祭があり餅をつきます。新潟県出身の私はそこで初めて「納豆餅」に出会います。初めて口にした「納豆餅」はとても衝撃的でしたが、今では「納豆餅でないと餅ではない」と思うまでになりました。収穫祭にはOBの方々がお祝いの日本酒持参で参加しておりました。「いつか私もそういうことをするのだろうか?」とぼんやりと思っていましたが、平成28年に訪れる最後の収穫祭で日本酒一升瓶を差し入れることが出来ました。
 アルバイトは某塾で理科と社会を3年間教えていました。その塾の指導理念である『継続は力なり』も私の中では大切な言葉として携えています。
 大学の課外活動としては「プロレス研究会」や「障害者ボランティアサークル」に所属していましたが、もっとも長く過ごしたのは「山形大学生協学生委員会」でした。生協学生委員会は当時から「新入生向けの歓迎企画」を行っていたり、「学生組合員向けのスポーツ大会」を行ったりしていました。現在でもそれらの活動は脈々と後輩に繋がって続けられています。
 生協学生委員会は学生組織ではあるのですが、山形大学生協の職員や常勤役員が面倒を見てくれるというのも特徴的です。学生委員として組合員向けの活動を行いながらも、生協の常勤役員の方が「協同組合について」色々と教えてくれるのです。時に煙草を燻らせながら、時にお酒を酌み交わしながら、時に麻雀を打ちながら、『一人は万人のために、万人は一人のために』『よりよき生活と平和のために』『未来は我等のものなり』などと。まだ若かったこともあり、素直に面白いと思いました。平成7年(1995年)は「協同組合のアイデンティティに関するICA(※1)声明」で「協同組合原則」の再定義がされた年でもあったため、当時の役員の皆さんは意識的に学生に対して「協同組合学習」をされていたのかもしれません。
※1…国際協同組合同盟(1895年設立)107ヶ国、308組織が加盟し、組合員総数は12億人を超えます
 

未来ハ我等のものな里(賀川豊彦)

 4年次になって教員採用試験の勉強を行いながらも、生協で働くことも頭に浮かびました。ですが初志貫徹と言うことで、千葉県中学校技術講師としてひとまず社会人生活をスタートさせます。しかしながら教員採用試験も厳しい時代でもあり、就職氷河期でもあり、正規雇用をされなくてはという脅迫的な思いにも駆られ、平成12年3月に東北大学生活協同組合に入協することを決断しました。東北大学生協では「研究室・大学事務部営業担当」として駆け出しの頃を過ごしました(主に青葉山エリア担当)。その後、大学生協東北事業連合(現:大学生協事業連合東北地区)に移籍、平成22年5月に再び東北大学生協に移籍しました。
  二度目の東北大学生協では忘れられない出来事「東日本大震災」を経験します。平成23年3月11日(金)は一般前期試験合格発表の翌々日で、一人暮らしをはじめる東北大生で新生活サポートセンターはごった返していました。約500名の新入生と保護者の来場があり、300名を超えるスタッフをセンター長として取り仕切っている最中でした。500名を超える方を避難誘導する経験は今後無いことを切に願っています。当時の仙台市はライフライン復旧に時間がかかり、ガソリン入手に時間がかかり、食べ物の種類も限られていました。そんな中、3月28日(月)には新生活サポートセンターを再開させることにしました。震災から再開までの17日間も大変でしたが、5月6日(金)の入学式に向けた1ヶ月と一週間も大変でした。当時は食堂事業担当統括も行っていたこともあり、復旧に向けて無我夢中で働いていたことを覚えています。
 その後、平成24年6月に山形大学生協に移籍し、平成25年5月より常務理事、平成29年5月より専務理事に就任し現在に至ります。山形大学生協でも日々色々なことがありますが、そのことは退任時に振り返らせていただきます。
 

新入生サポートセンターOBや生協学生委員OBが卒業後も顔を見せに来てくれます
(左:筆者 真ん中:新入生サポートセンターOB 右:住まい事業部店長(山大OB))

 この駄文も終わりに近づきましたので、個人的なことも少し書かせていただきます。趣味は・・・と聞かれると、昔はたくさんありましたが、今はこれと言ったものはありません。子どもが小学生と幼稚園児のため、まだまだ手がかかることもあり、趣味に費やす時間がとれないというのが事情です(ウルトラマンには詳しくなりました!)。それでも「家庭菜園」は8年ほど続けています。学生時代の農場実習の経験からでしょうか。子どもと一緒に野菜を作っています。子どもは自分で作った野菜は必ず食べます。「食育」は耳学問でなく、『一試にしかず』だと思って続けています。


家庭菜園に咲く、ジャガイモの花

今年はメロンに挑戦しました!

 あと趣味ではないのですが、子どものPTAの関係で「PTA仲間と一緒にお酒を飲む」ことをストレス解消にしています。PTAに集う人々は、年齢も様々、仕事も様々、出身地・出身校も様々。そんな全く環境が違う人たちと楽しく交流させていただいております。
 最後になりますが、大学生協では『つながる元気、ときめきキャンパス。』のスローガンの下、「大学にとって生協がなくてはならない存在であること」を目指し、日々努力しております。「山形大学に生協があって良かった」と入学時に、在学中に、卒業してからも思ってもらえる存在を目指しております。そのため自身は微力ながら貢献させていただく次第です。


大学生協ロゴマーク つながる元気、ときめきキャンパス。

 「協同組合の理念」は平成28年(2016年)に「ユネスコ無形文化遺産」となりました。更に、平成27年(2015年)に国連サミットで採択されたSDGs(※2)について、平成30年(2018年)日本生活協同組合連合会は「コープSDGs行動宣言」を行っております。SDGsには生協の事業・活動と強い関わりを持つ目標があります。山形大学生協でもSDGsの目標達成に向けて、今後様々な取り組みをすすめて参ります。
※2…Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標)

『未来は我等のものなり』


掲載:2019.8.8