山形大学校友会
山形大学校友会事務局
 (山形大学エンロールメント・マネジメント部)
 〒990-8560 山形市小白川町一丁目4-12
 TEL 023(628)4867 FAX 023(628)4185
 
山形大学校友会活動状況
山形大学オフィシャルサイト交通アクセス・地図

『山形大学事務職員雑感』

   黒沼 毅さん (山形県天童市 出身)
   昭和52年3月 山形大学人文学部 卒業
   現在:山形大学法務支援室長兼監査室長


 昭和52年4月、人文学部を卒業した私は、そのまま山形大学に事務職員として就職することになりました。「へー公務員なの?」、「夏休み長くていいねー」、「学校の事務員さんみたいな感じ?」なんてことを何度質問されたことか。それもいつしか定年を迎え、継続雇用も今年度限り、思えば遠くへ来たものです。学生時代を含め46年間も山形大学とともに過ごすことができた私は何と幸せ者であることか。

[学生時代]
 私が入学した昭和48年は、学生運動も終焉を迎えつつある時期で、入学早々ロックアウトで授業が無いという大変な事態なのに、学生たちの多くは学生運動に無関心で、私も部活を物色しながら自由を楽しんでいました。高校から始めた弓道部に入部を決め、新しい仲間と一緒に山寺へ出かけたり、蔵王に登ったりと、受験勉強から解き放たれた開放感に浸っていたように思います。
 4年生の先輩方は理知的で豪快で、とんでもなく大人に思えました。タバコを吹かし、学問の話や、映画、小説、音楽、人生論など様々な議論に興じる先輩たちに憧れ、これこそ大学生だ、俺もいつかはと意気込んでいました。髪を伸ばし、ジーパンをはいて、専門書を片手に構内を歩き、格好だけはつけてみたものの、思えば子供でしたね。
 入学したら楽しくやろうと決めていたのに、勉強よりも部活が中心になって、あんなにのめり込むとは思いませんでした。同期入部の1年生は結束力が強く、生意気で個性的な集団でした。3年生になり統合主将に推された私は、優勝して伊勢神宮の全国大会に出るんだと大言壮語したあげく、結局は2部との入替戦となり、僅差で1部残留を決めたときには大泣きすることになりました。


筆者(大学時代)

[山形大学への就職]
 銀行に就職が決まっていた私に大学から連絡があったのは、4年生の秋のことでした。国家公務員中級試験に合格していた私に、母校で働いてみないかという誘いの電話でした。就職指導の先生にも話が行き、大学自身が御法度の内定破りを進めるとは何ごとかと怒られたものの、母校で、大学で、安定した国家公務員になれるという魅力には逆らえませんでした。大学の事務職員とはどんな仕事をするものか私は分かっていませんでしたが、大学という自由な雰囲気の中で働くということに、何かわくわくするものを感じていました。
 就職し最初に配属されたのは給与係でした。月初めに業務が集中するこの係では、配属された日から残業が続き、情けないことに1ヶ月余りで十二指腸潰瘍を煩い入院することになってしまいました。
 それでもだんだん仕事に慣れてくると、教育や研究に関わる仕事がしたくなり、「こんな仕事には、やりがいを見いだせない。」などと不満を抱き、いつしか意向調書に配置換の希望を書き連ねていました。
 新規採用職員の中には私と同じ想いをしている人がいるかもしれません。でも頑張ってみてください。「こんな仕事」さえ一人前にできなければ、いつまでたってもプロの事務職員にはなれないのですから。「事務職員には好きな仕事だけやれる職場は無い。与えられた仕事を好きになるよう努力し、プロとして認められることが大事だ。」先輩職員からの言葉は、今も私の心に刻まれています。

[活気のある職場]
 就職した頃の経理部は、若手職員がいっぱいで活気がありました。我こそが山形大学のルールブックだと確信し、学部からの質問や意見にガチンコで応えていたので、まるで喧嘩をしているように賑やかでした。そのかわり、仕事以外も活発で、野球にバレーにテニスにと頑張っていました。ソフトボール大会だけならまだしも、運動会と称してゴルフバックを担いだリレーをさせられたのは何のためだったのか。
 何かにつけて飲み会があり、秋のバス旅行、河原での芋煮会、温泉での忘年会と、本当に楽しい職場でした。飲んで口論する若手職員、止めに入った仲間にまで食ってかかり、三つ巴のバトルロイヤル。漬物が嫌いだという上司を皆でつかまえ無理やりの漬物攻撃、上司もあきれて大笑い。歌い踊って大騒ぎ、毎年こんなことやってて問題にならなかったのは不思議です。


誘われて始めたテニス

楽しい宴会
[年功序列の壁]
 当時の事務組織は、地元採用の職員と本省から出向してくる管理職という構造になっていて、地元採用の職員にとっては課長相当の6つの事務長職が最高のポストでした。地元職員の中にも年功序列という厚い壁があり、有能な職員が力を発揮できないまま腐っていくようなケースを見るにつけ、虚しさを感じたものです。
 そんな中で着任した若い事務局長が、先輩職員を飛び越して数名の若手係長を課長補佐に抜擢しました。そのとき彼は「年功序列に風穴を開けた。波紋は少しずつ広がる。流れが戻ることはない。」とエールを送ってくれました。それは、一つの英断が山形大学事務職員の未来を変えた瞬間でした。
 法人化とともに、地元の職員を管理職に登用する流れが全国に広がりました。山形大学でも地元採用の職員から多くの幹部職員が登用され、事務職員のモチベーションが上がったかわり、その昔、我々が言っていた「あんな管理職では・・」といった言葉は、地元採用の幹部職員へ向けられることになりました。管理職の育成が山形大学の大きな課題になったということです。

[仕事は情熱的に]
 平成12年3月、局長室に呼ばれた私は、「学生寮の正常化を進めるから手伝え」という一言で学生系に鞍替えすることになりました。荒れ放題の学生寮、押しかける学生たち、罵詈雑言に耐える事務職員、取り囲まれる教員などなど、大学と学生たちとの間で続いてきた行き違いを整理し、これから入学する学生たちのための新しい寮を整備する仕事の始まりでした。
 3階の局長室と1階の学生部を何度も往復し、学生寮改修のための概算要求や、不法に占拠する学生たちへの対応を相談する毎日。先に帰れと言いながら夕食のサンドイッチを頬張る局長の姿を見れば、先に帰れるわけもなく、自分にやれることを探し、少しでも目的達成に近づくよう考える日々が続きました。
 それまで誰も手を付けなかったこと、手が付けられないと諦めてきたことに挑戦する局長は、精力的に大学の舵取りを進めていきました。「これは無理だ」と難しい顔で2・3年過ごせば異動なのに、火中の栗を拾うとは酔狂な話である。「国のため」というのは大げさだが、何かのため、誰かのため、「こんなのは見過ごせない」と情熱的になる、事務職員トップの矜持を見たような気がしました。
 平成14年、多くの教職員の協力と努力が実を結び、全面改修に増築も加えた定員300人の新しい学生寮は完成しました。それは、情熱こそが物事を動かす力なのだと実感した出来事でもありました。

[学生センターの設置]
 平成13年秋、小白川キャンパスでは事務職員の定員削減が進み、事務組織の改編が迫られていました。このため、各学部の学生系事務室を統合した学生センターを作ろうと計画し、説得に奔走することになりました。
 中も見えない暗い扉に閉ざされた事務室ではなく、常に学生が出入りし、1ヶ所で用が済むワンストップサービスを目指す学生センターの設置は、学生支援の在り方を変えるものでもありました。
 しかし、そうしたセンターを設置している大学は少なく、そのイメージを理解している人も限られていました。そこで、学部長や副学長を誘って仙台にあるT学院大学の学生センター視察を敢行しました。トップ集団が成功のイメージを共有できなければ、組織改革は単なる人減らしに終わると思ったからです。
 各学部教授会に出席して設置の必要性を説き、教養棟1階の改修工事を経て、平成15年に小白川キャンパスの学生センターは誕生しました。その後、米沢キャンパスと鶴岡キャンパスにも明るく開放的な学生センターが誕生し、ようやく願いが叶ったような気がします。

[国立大学の法人化]
 国立大学の法人化が現実味を帯びてきた平成14年4月、山形大学に法人化対策室が設置されました。文部省の一部局だった国立大学が法人化され、教職員も国家公務員ではなくなるという出来事は、「対策」が必要なほどの大事件でした。
 二人の副学長が、組織運営、人事制度、目標評価、財務会計制度という4つの部会を分担し検討を進めることになり、私も法人化対策室の一員としてその取りまとめを担当していました。
 横並びを重視した護送船団方式から、各大学が特長を活かした自由な大学運営に移行するという理想と、実際には予算も定員も自由にはならない現実の中でソフトランディングを考える私。情報収集に長け、理想を掲げて新しい海に乗り出そうと考える若手職員。それぞれが想いをぶつけ、時間との闘いの中で、運営組織の構築や中期目標・計画の策定、学内規程の整備といった作業が進んでいきました。
 もう公務員ではないという覚悟を持たせるには全員に辞表を出させるべきだ、給料は毎月きちんと支給されるものだといった安易な意識を変えるために給料の遅配でもやってみたらどうだ、といった過激な意見も飛び交う中、ようやく体制を整えた山形大学は、平成16年4月、国立大学法人山形大学となりました。

[定年後]
 定年後の私は、継続雇用の業務に頑張る傍ら、地元公民館の分館長を務めたり、我が家にホームステイしたコロラドの友人のところへ妻と一緒に出かけたりと、これまでとは少し違ったことに楽しみを覚えています。長年読み貯めた文庫本の断捨離をしてみたり、学生の頃の夢だったギターのレッスンに通ったりと、思いつくままに挑戦するのも楽しいものです。
 いろいろありましたが大学事務職員は実に面白かった。山形大学という職場は、私の人生の宝物です。大学事務職員という仕事は、いろいろな出会いがあって、自分の成長も実感できる素敵な職業です。現役事務職員の皆さんにとってもそうであることを願ってやみません。私もラストスパート。もうすぐGood byeです。Thank you そしてGood luck 山形大学。 


アメリカ コロラド州にて

現在ギターのレッスンに通っています


掲載:R1.9.9