ホーム > 新着情報:プレスリリース > 2023年09月 > 学長定例記者会見を開催しました(9/7) > 「日本百名山」で有名な深田久彌はなぜ樹氷(アイスモンスター ・エビノシッポ)に造詣が深かったのか 〜 高山植物学者・登山家の濱田(田邊)和雄との交流 〜

「日本百名山」で有名な深田久彌はなぜ樹氷(アイスモンスター ・エビノシッポ)に造詣が深かったのか 〜 高山植物学者・登山家の濱田(田邊)和雄との交流 〜

掲載日:2023.09.07

本件のポイント

  • 昭和5年頃、樹氷(アイスモンスター)が過冷却水滴と雪が一体化した「複合体」であることを見つけたのは武田久吉と濱田(田邊)和雄であった。
  • 深田久彌の戦前の著作にある「樹氷(アイスモンスター)」は「複合体説」であり「樹氷(アイスモンスター・エビノシッポ)」について造詣が深かった。
  • 深田久彌は、高校・大学・社会人を通じて濱田(田邊)和雄と交流があり、登山・スキーについて手ほどきを受けると共に、樹氷(アイスモンスター・エビノシッポ)についての知識を得ていた。

概要

 武田久吉(京都帝国大学講師)は大正9年頃から高山植物の生態を研究する中で高山植物への過冷却水滴の付着を観察していました。昭和5年頃に過冷却水滴と雪が一体化したものが樹氷(アイスモンスター)であることを見つけたのは高山植物学者・登山家である武田久吉と濱田(田邊)和雄(旧制松山高等学校教授)でした。深田久彌は、旧制第一高等学校の旅行部・東京帝国大学時代に先輩である濱田(田邊)和雄から登山・スキーの手ほどきを受けており、社会人になってからも山や樹氷について助言を受けるなど交流がありました。深田久彌の戦前の著作にある「樹氷(アイスモンスター)」の成因についての記述は「複合体説」であり、深田久彌は「樹氷(アイスモンスター・エビノシッポ)」についても造詣が深かったことが分かりました。

 詳しくはこちら(リリースペーパー)をご覧ください。

1. これまでの経緯

 「樹氷(アイスモンスター)」の成因については雪が凍りついたとする「雪説」、過冷却水滴が凍りついたとする「過冷却水滴説」、過冷却水滴と雪が一体化して氷の塊となったとする「複合体説」がありました。「雪説」は「樹氷(アイスモンスター)」が発見された大正3年(1914年)頃から言われており、昭和10年(1935年)代の終り頃まで安齋徹(旧制山形高等学校教授)らによって推されていました。一方、武田久吉(京都帝国大学講師)は大正9年(1920年)頃から高山植物の生態を研究する中で高山植物への過冷却水滴の付着過程が観察していました。昭和5年(1930年)頃に過冷却水滴と雪が一体化したものが樹氷(アイスモンスター)である「複合体説」を見つけたのは高山植物学者・登山家である武田久吉と教え子の濱田(田邊)和雄(旧制松山高等学校教授)でした(注1,注2)。しかし、昭和10年(1935年)代半ばころから東北帝国大学の加藤愛雄助教授らによって行われた航空機に対する着氷を防止する研究によって「過冷却水滴説」が提唱され、その説は1940年(昭和15年)代の終わり頃から1960年(昭和35年)代の終わり頃まで支持されていました。1968年(昭和43年)から小笠原和夫(芝浦工業大学教授)によって行われた「蔵王の樹氷の総合研究」の中で、黒田大助(北海道大学教授)らの「蔵王の樹氷調査報告」により樹氷(アイスモンスター)が着氷(エビノシッポ)と着雪が焼結(一体化)してできる「複合体」であることが再提唱されて現在に至っています(表1)。
  注1:学長定例記者会見(昭和30年3月)昭和初期に行われたアイスモンスター(樹氷)の研究資料を発見
  注2:環境保全(令和3年)Vol.24, p77-81 濱田(田邊)和雄によるアイスモンスター(樹氷)の成因の解明           
     http://sci.kj.yamagata-u.ac.jp/~zao/documents/no24-05.pdf

 なお、現在の「樹氷」には、過冷却水滴が凍結して氷となった「エビノシッポ」と、過冷却水滴と雪がオオシラビソ(アオモリトドマツ)上で一体化して氷の塊となった「複合体」である「アイスモンスター」の二種類があります。
 さて、「日本百名山」で有名な深田久彌の戦前の著作にある樹氷(アイスモンスター)は「複合体説」でした。なぜ深田久彌は「樹氷」に詳しかったのか、なぜ「雪説」「過冷却水滴説」が主流であった当時に「複合体説」をとったのか経歴・交友関係等を調査しました。その結果、深田久彌は第一高等学校の旅行部と東京帝国大学の時代に先輩である濱田(田邊)和雄から登山・スキーの手ほどきを受けると共に、社会人になってからも交流があり山や樹氷についての知識を得ていたことが分かりました(表2)。

2. 深田久彌の著作における樹氷(アイスモンスター・エビノシッポ)についての記述

戦前の深田久彌の著作では登山・スキー・濱田(田邊)和雄との交流・樹氷・蔵王について数多くの記述が残されています(表2 ●3−1、●3−2、●6,●8−1、●8−2)。特に、「山頂山麓(青木書店 1942年)」に掲載されている随筆「樹氷」から以下のことがわかります。

(1)「モンスタアと呼ぶのは針葉樹の樹氷のこと」
   「濶葉樹の樹氷がこれ又華やかに美しい・・・樹枝一ぱい花が咲いたやうな樹氷」
   「アイスモンスター」の「樹氷」と「エビノシッポ」の「樹氷」が区別できた。
(2)「オホシラビソといふ針葉樹だが、それが枝もろとも雪と氷とにガンジがらめにされて」
   「樹氷(アイスモンスター)」が氷と雪の「複合体」であることが理解していた。
(3)「本当の樹氷を見ようとするには、相当な高さの山に登らなければならぬ。しかもどこにでもあると
    いふものではない。
    樹氷の育つ場所には色々の條件がある。風あたり、湿度、樹の大きさなどが関係する。」
   「樹氷(アイスモンスター)」の生成には特別な気象条件が必要であることを知っていた。
(4)「樹氷のこととなると眼のない同行の田邊君が」
    高校・大学・社会人と濱田(田邊)和雄と交流があり、濱田(田邊)和雄が卒業研究・大学院で
    高山植物の生態を研究している過程で見つけた樹氷(アイスモンスター)が過冷却水滴と雪の「複合体」
    であることを聞いていた。
(5)「その方の研究をしている友人の説によると、これは霧氷と呼ぶべきだそうである。」 
   濱田(田邊)和雄と交流があって「樹氷」のことを教わっていた。しかし、濱田(田邊)和雄は「樹氷」を
   「霧氷」と呼ぶべきだとしているが、深田久彌は「樹氷」とよんでいる。
(6)「わが國で樹氷の名高いところは、後で述べる蔵王のほかに、八甲田山・八幡平・吾妻連山の一部、
   それからこれは大ていのスキーヤアの行く志賀高原の横手山の廣い頂上などが擧げられる。」
   昭和10年(1935年)頃までに見つかっていた日本国内で「樹氷(アイスモンスター)」が存在している
   地域について熟知していた。
(7)「どこかそこらの簡易なスキー場に行った位で、よく樹氷の寫眞を撮ってきたと云う人があるが、
   それはただ樹木に綺麗に雪が積もったといふだけで、樹氷でもなんでもないことがおおい、」
   写真によっても「樹氷(アイスモンスター)」か否かの判定ができた。

3. 武田久吉・濱田(田邊)和雄・深田久彌について

(1) 武田久吉(1883.3.2.-1972.6.7.)
 武田久吉は英国の外交官であったアーネスト・サトウ(1843.6.30.-1929.8.26)の次男です。高山植物学者、日本山岳会創設した登山家であり、尾瀬の保護に尽力したことから「尾瀬の父」と呼ばれています。
 大正9年(1920年)には丹沢で霧が葉に凍りつく過程を、昭和2年(1927年)には八ヶ岳で過冷却水滴から成る霧が樹枝や樹冠に吹きつけて結合する様子を観察していました(●1)。大正15年(1926年)の卒業研究から濱田(田邊)和雄を個人的に指導しています。昭和5年(1930年)に出版された「日本地理大系山岳編(改造社)」に蔵王の樹氷(アイスモンスター)の成因等について(写真は濱田(田邊)和雄)を記載しています(●2 図1)。なお、武田久吉と濱田(田邊)和雄は共編で、昭和6年(1931年)に「高山植物写真図聚(梓書房)」を、1950年(昭和25年)に「日本高山植物図鑑(北隆館)」を出版しています。1961年(昭和36年)に発行された「日本高山植物図鑑(北隆館)」の「学生版」は現在でも購入可能です。

(2) 濱田(田邊)和雄(1900.5.11.-1961.11.9.)
 濱田(田邊)和雄は高山植物学者・登山家でした。早稲田大学海外調査の際にキリマンジャロで病死しました。
 大正9年(1920年)に旧制第一高等学校に入学して旅行部に所属して登山・スキーの活動を行っていました。大正13年(1924年)に東京帝国大学理学部植物学科に入学しましたが、卒業後もたびたび旧制第一高等学校の旅行部を訪れ、山やスキーの引率指導をしていました(向陵誌、昭和5年、第一高等学校寄宿寮)。卒業研究・大学院で高山植物の生態を研究する過程で樹氷(アイスモンスター)が過冷却水滴と雪の「複合体」であることを見つけています(●4、●5、●7)。高校・大学の後輩である深田久彌とは高校・大学・社会人を通じて交流がありました。

(3) 深田久彌(1903.3.11.-1971.3.21.)
 深田久彌は「日本百名山(1964年 新潮社)」で有名な登山家・随筆家です。
 大正12年(1923年)に旧制第一高等学校に入学し、旅行部の先輩や卒業生である濱田(田邊)和雄らから手ほどきを受けながら登山・スキーを始めました。大正15年(1926年)に東京帝国大学文学部哲学科に入学しましたが、昭和2年(1927年)に改造社に入社して、学生と社会人の二足のわらじとなりました。昭和5年(1930年)には執筆活動優先のため大学・会社を中退・退社しています。社会人となってからも濱田(田邊)和雄との交流は続き、登山・スキー・樹氷についての助言を受けています。深田久彌の著作にある樹氷(アイスモンスター)の成因についての記述は「複合体説」でした。

まとめ

 深田久彌の戦前の著作にある樹氷(アイスモンスター)の成因についての記述は「複合体説」であり、現在でも通用する内容でした。深田久彌は、旧制第一高等学校の旅行部と東京帝国大学の時代に先輩である濱田(田邊)和雄から登山・スキーの手ほどきを受けていました。濱田(田邊)和雄は卒業研究・大学院で高山植物の生態を研究する過程で樹氷(アイスモンスター)が雪と氷の複合体であることを見つけています。深田久彌は、社会人になってからも濱田(田邊)和雄から樹氷についての知識を得ることで樹氷(アイスモンスター・エビノシッポ)に詳しくなったことがわかりました。

図1 冬の杉ヶ峰 日本地理大系(改造社 1930年)の画像
図1 冬の杉ヶ峰 日本地理大系(改造社 1930年)

図2 山頂山麓 深田久彌(1942年)の画像
図2 山頂山麓 深田久彌(1942年)

表1 樹氷(アイスモンスター)についての成因説の変遷と深田久彌の戦前の著作の画像
表1 樹氷(アイスモンスター)についての成因説の変遷と深田久彌の戦前の著作

表2 武田久吉・濱田(田邊)和雄・深田久彌に関する年表
の画像
表2 武田久吉・濱田(田邊)和雄・深田久彌に関する年表

●1 吹けば舞ひ立つ粉雪が、どうして樹枝の表裏を全て包んでしまつたり、樹幹に膠着し得るのか? という疑問を解決したかったからである。・・・それは甚だ簡単なプロセスで、降雪時に伴うて起る、過冷却した水滴から成る霧が、風のまにまに吹きつけて、樹枝や樹幹に触れる拍子に凍結し、それがセメントとなって同時に雪を結合するからなのである。 「冬山の八ヶ岳 雪庇(丸善)1937年に収録」

 ●2 刈田岳下から見た杉ヶ峯の冬景色で、近く立つ石像の如きはヒメコマツに粉雪と霧氷(注:「樹氷」を「霧氷」とよぶべきだとしている)とが厚い衣を被せたもの、中景の針葉樹はオオシラビソで孤々独立した有様は西欧のタンネ(注:クリスマスツリーのようになっているもみの木)を思はせる。(武田久吉) 寫眞(濱田和雄) 「冬の杉ヶ峯 日本地理大系山岳編(改造社 1930年)p98に収録」(図1)

●3−1 僕がスキイを覚えたのは、高等学校へはひつた年の冬で、旅行部の人達に伴れられて妙高山麓の関温泉へ行った時が始めてだ。 「呼ぶ冬山 わが山山(改造社)1934年に収録)」

●3−2 峩々温泉から蔵王を超えてきたといふ濱田和雄兄にここで数年ぶりに逢へたのも嬉しかった。この人は僕の最も尊敬する山男中の山男で、高等学校の時から僕はよくこの人に伴れられて山に行った。アザラシ会の連中でこの濱田先輩に引率されなかった者は一人も居まい。凄い山好きで、今は松江高等学校の植物の先生だが、9時に試験を済まして10時に汽車で山に飛んできたといふ熱心さだ。いい樹氷の寫眞が一枚撮りたくて毎冬蔵王へ詰めに来るのだといふ話。・・・吹雪になるとまるで見当違ひをするといふことを、昨晩も濱田さんが委しく説明していたところだった。 「吹雪く蔵王 わが山山(改造社)1934年に収録」

●4 羽翼状の樹氷の隙間に普通の雪が詰り、次の機会には更に其の上に樹氷を着けて行くらしく見える點もあります。樹氷と雪がとの混合物が出来上がるのが一番多いようであります。 「霧氷(注:「樹氷」を「霧氷」とよぶべきだとしている)の話(山 1936年 3巻 p24-29)」

●5 鳥の羽かエビの尻尾の様な形をした樹氷の隙間に、雪が詰まって来る。恐らく樹氷が出来たり雪が吹き付けられたり、又其の上に樹氷が一段と発達したり、段々と怪物化して来るのであらう。 「思い出の山々 雪庇(丸善)1937年収録)」

●6 高等学校へ入って間もなく、山男のH君の風貌が僕の注意をひいた。頭を茫々にして地下足袋か何かをつっかけ、背中にルックザックを背負ったかのやうに首を前に突き出し気味に、両肩に交々前後を揺すって、寮の中を徘徊しているこの上級生に、僕はひそかな親しみを感じた。やがてH君と口をきくやうになった・・・そのH君に連れられて始めて一緒に山に行ったのは五月小金澤山から大菩薩峠への尾根を歩いた時だが、その尾根の上に休んだ時、H君は遥かに見える南アルプスの峰々を一つ残らず片端から名差して聞かせた。僕は地図の裏にそれらの山の形と名を順々に書き取りながら、「これは大したものだ。」と感嘆と羨望の念に打たれた。・・・ 「山岳展望 山岳展望(三省堂)1937年に収録」

●7 この怪物自身を樹氷と誤称している人もあり、又之を形成している材料が純粋な樹氷のみでもない。針葉樹では霧氷(注:「樹氷」を「霧氷」とよぶべきだとしている)と雪との混合物が梢にしっかりとしがみ付いて、更にその上から同様の混合物で樹木全体を締め付けて了う。恰も樹木全体を縄でぎりぎりに縛り上げて、夫れを砂糖で固めた様にして了ふのである。 「樹氷の話(旅 1940年 17巻 p44−45)」

●8−1 二度宮城県側の峩々温泉から入って、その清渓小屋に泊めてもらった。・・・二度とも友人の松江高等学校の植物の先生と一緒に行った。 「清渓小屋 山頂山麓(青木書店)1942年に収録)」

●8−2 冬山で最も見事な眺めの一つは、樹氷の群れであらう。通常我々は樹氷と一概に呼んでいる が、その方の研究をしている友人の説によると、これは霧氷と呼ぶべきだそうである。・・・どこかそこらの簡易なスキー場に行った位で、よく樹氷の寫眞を撮ってきたと云う人があるが、それはただ樹木に綺麗に雪が積もったといふだけで、樹氷でもなんでもないことがおおい、本当の樹氷を見ようとするには、相当な高さの山に登らなければならぬ。しかもどこにでもあるといふものではない。樹氷の育つ場所には色々の條件がある。風あたり、湿度、樹の大きさなどが関係する。・・・わが國で樹氷の名高いところは、後で述べる蔵王のほかに、八甲田山・八幡平・吾妻連山の一部、それからこれは大ていのスキーヤアの行く志賀高原の横手山の廣い頂上などが擧げられる。・・・大部分はオホシラビソといふ針葉樹だが、それが枝もろとも雪と氷とにガンジがらめにされて、思ひ思ひの風貌姿勢で突っ立ているさまは、見事と云はうか、奇怪と云はうか、まことにモンスタアとはうまく名づけたものである。・・・我々がモンスタアと呼ぶのは針葉樹の樹氷のことだが、濶葉樹の樹氷がこれ又華やかに美しい。樹氷のこととなると眼のない同行の田邊君が、パラダイスから西南の方に降りた所にこの濶葉樹の樹氷があると見当をつけていたので、そちらの方に強引に降りて行った。果たして素ばらしいい景色の中に入った。枝一ぱい花が咲いたやうな樹氷で飾られた濶葉樹が、あちらこちらにもゆらゆら枝を揺らしながら立っている。・・・(図2)「樹氷 山頂山麓(青木書店)1942年に収録)」

関連リンク

  • シェア
  • 送る

プレスリリース一覧へ