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新出の伊達政宗文書発見 ~<寛永12年(1635)カ> 三月十二日付妻木頼利宛伊達政宗書状~

掲載日:2024.01.11

本件のポイント

  • 令和5年10月8日、兵庫県立歴史博物館において新出の伊達政宗書状を発見した。某年<寛永12年 カ>3月12日付妻木権左(頼利)宛政宗書状である。先祖が宍粟郡皆河村のうち関村(現兵庫県姫路市安富町関)に居住していて、現在は愛知県在住の某氏から2019年に博物館へ寄託されたもの。
  • 本文書は、これまで全く知られていなかった文書で、新発見のものである(仙台市博物館に確認済み)。
  • 伊達政宗研究の発展に向け、研究が加速することが期待される。

概要

 都市・地域学研究ユニット(都市研と略す)は、研究員である山大名誉教授の松尾剛次氏を中心に、山形偉人再発見プロジェクトの一環として、最上義光(伊達政宗も含む最上家)研究を行ってきた。その過程で、松尾教授は、令和5年10月8日、兵庫県立歴史博物館において同館学芸員前田徹氏の紹介で、新出の某年3月12日付妻木権左(頼利)宛伊達政宗書状を発見した。
 それには年付が書かれていないが、政宗の花押編年分析から寛永9年(1632)頃~同13年(1636)のものと考えられる。また、この間に政宗が3月12日に江戸に居るのは、寛永9年、10年、12年。さらに、この間に細川忠利が3月12日に江戸に居るのは、寛永11年、12年(『大日本近世史料 細川家史料』より)。よって、この書状を寛永12年(1635)のものと推定した。
 内容は、伊達政宗が、3月16日の朝、細川忠利がご訪問(政宗邸 カ)されるので、先約が無ければ妻木も御一緒しないかと誘ったものである。
 妻木氏は7500石の旗本で、政宗は62万石の大名、細川忠利は、肥後熊本藩54万石の初代藩主である。それゆえ、政宗がそうした家格の相違を気にせずに、交遊していたことがわかり興味深い。
 こうした新出伊達政宗文書の利用によって、東北大名の雄であった伊達政宗研究のますますの発展が期待される。政宗は、戦国大名として著名だが、江戸時代においても有力外様大名として、江戸幕府を支えており、江戸期の伊達政宗研究史料の収集も重要である。

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用語解説

1.山形偉人再発見プロジェクト:都市研は2008年以来、最上義光、安達峰一郎といった偉人でありながらも光が当てられて来なかった人物に注目した研究を行っている

2.妻木頼利(1585~1653) 江戸時代前期の武士。天正13年生まれ。妻木頼忠の子。旗本。元和9年家督をつぎ,美濃(岐阜県)土岐郡に7500石を領し,寄合となる。大坂加番,焼失した近江(滋賀県)多賀神社造営奉行などをつとめた。承応2年10月1日死去。69歳。通称は主水,権左衛門。なお、妻木頼利宛の伊達政宗書状は、これまで(寛永2年)霜月晦日付の案文(『仙台市史 資料編12 伊達政宗文書3』所収2665号資料)しか知られていない。

3.細川忠利(1586~1641)江戸時代前期の大名。細川忠興の子。元和8年(1622)越中守。豊前国小倉藩2代藩主、寛永9年(1632)肥後国熊本藩初代藩主。寛永18年死去。56歳。

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