ホーム > 新着情報:プレスリリース > 2024年02月 > 学長定例記者会見を開催しました(2/1) > 蔵王の「ワサ小屋(二代目)」と番人の「井上老婆」の写真が見つかりました 〜200年間に渡る名称の変遷と継承の過程が解明されました〜
掲載日:2024.02.01
蔵王山の地蔵岳と熊野岳の鞍部に「ワサ小屋跡」がある。「ワサ小屋(二代目)」と二代目のワサ小屋の二人目の番人だった「井上老婆」の写真が見つかった。また、新発見の資料から「ワサ小屋」について200年間に渡る名称の変遷と継承の過程が明らかになった。
江戸時代に宝沢口と高湯口の法印によって作られた2つの「笹小屋」は、明治時代になると放置され「ワサ小屋」とよばれた。大正7年の宮城第二中学校遭難事故に伴い、石でできた避難小屋が作られ、「ワサ・ワシ・和七・和三小屋」とよばれるようになった。江戸時代に作られた「笹小屋」は熊野岳山頂に移設された。戦時中は廃屋となり、昭和26頃に「ワサ小屋跡」となった。平成23年に「老婆おわさが山小屋の番をしており参拝者の面倒をみていた」との説明板が作られた。
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蔵王山の地蔵岳と熊野岳の鞍部にある説明板には「その山頂に至る登山道、神社への奉拝道で最後の上り口にあたるこの場所は“ワサ小屋跡”と呼ばれ、おワサさんという老婆がここにあった山小屋の番をしており、参拝者の面倒をみていたといわれています。・・・ひと頃は参拝者に対してここで水を提供していたといいます。」と記されています。かつてワサ小屋は避難小屋として蔵王山の研究者や登山者にとって重要なところでしたが、残されている資料は多くありませんでした。今回「ワサ小屋(二代目)」およびワサ小屋(二代目)の二人目の番人であった「井上老婆」の写真が見つかりました。また、新発見の資料から「ワサ小屋」に関する200年間に渡る名称の変遷と継承過程が明らかになりました。
●江戸時代
修験者(山伏)と一般人の中間の立場の者を法印(里山伏・百姓山伏)と言います。「古文書より見た蔵王山(蔵王山調査報告書 山形県上山教育委員会編)」によりますと、江戸時代中期まで蔵王の山で修行に励んだ山伏は、江戸時代の終わり頃になると山麓や城下町に住みついて里山伏(法印さま)となりました。蔵王に参詣する場合、遠刈田口(嶽ノ坊)、上山口・中川口(安楽院)、宝沢口(三乗院)、半郷口・高湯口(松尾院)の四つ登山口があり、おのおの法印(寺)が管理していました。一方、庶民の信仰は商売繁盛を望む現世利益へと変化し、御山参りが急増しました。
蔵王周辺には笹小屋(現在の海の家のような仮設小屋、集金・案内・救護・物販等に使用)が作られており、お地蔵さん前の笹小屋では法印によって入山料が徴収されていました。文化10年(1813年)姥神まで新道が作られたことから笹小屋は姥神前に移動しました。姥神前には宝沢口と高湯口の2つの小屋が作られ、双方から法印が出てお山案内の利権をめぐって争いを起こしていました(蔵王山今昔温泉記)。「蔵王山裏口別当訴訟文書」には「地蔵前笹小屋詣之者行人数改受、尚松尾院方も人数村所迄明細手帳へ書記置御山役銭として壱人四十八銅宛割を以都合致送書相添拙院方へ差送・・・文化十年度御山姥神前迄新道開候に付地蔵前笹小屋に而行人数可改様無之則姥神前江笹小屋相移候処四ケ村中之者及不法強勢右笹小屋等焼拂(はらい)候に付領主役所へ及訴訟候」と記載されています。両者の対立は激しく、笹小屋(半郷)が焼かれることもありましたが、争いは寛永5年(1852年)頃に収束しました。
●江戸時代から明治時代へ
明治元年(1868年)3月に神仏判然令(神仏分離令)、明治5年9月に修験宗廃止が出され、山伏や修験行者は神職となるか、寺僧になるか、農民になるかせまられました。「蔵王山の修験道(月光善弘)」によりますと、宝沢口の三乗院は明治8年(1875年)の内務省「古社寺に関する取調」に対し「当山別当系統、戸手 井上光永」と返答しています。一方、高湯口の松尾院は金峯姓を称し半郷の刈田嶺神社の神職となりました。
●明治時代
修験宗廃止に伴い笹小屋は管理されなくなって荒廃し、明治半ば頃には小屋自体の存在意義も忘れられ、山麓に勝手に小屋を作って入山料を徴収する者も現れました。笹小屋は、壊れた小屋、ワサ小屋と呼ばれるようになりました。
●大正7年10月23日
大正7年宮城県仙台第二中学校の遭難事故が起こりました。宮城県仙台第二中学校學友会が発行した「學友会雑誌 登山記念号」には「熊野岳を下る事約十町。俗称ワサ小屋を過ぎし處に於て小休憩し・・・更に一里近く行くと、ワサ小屋に着きました。此處から案内人が帰ってしまいましたが、数町行って、ワサ小屋といふ石室に行くと、その前に案内者は糸経をまとひ煙草を吸うて居た。」と記載されています。
●大正8年ころ
宮城県仙台第二中学校の遭難がきっかけで、石でできた避難小屋が作られました。
伊東五郎氏の「蔵王五十年の歩み」には「蔵王山1700米の箇所、宝沢口と高湯口の合する所に石室がある。ワサ小屋といっている。・・・昔は高湯から堀清太郎ぢいさんが登っていた。夏になると石室に板で小屋を掛け、大きな鏡を下げて濃霧の時には方向を知らすため打ち鳴らしていた。全くの助小屋だったのである。」としています。また、伊東久一氏の「蔵王山今昔温泉記」では「わさ小屋に着く、此処には四方石で囲まれたお室(むろ)があり、二、三十人はお籠り出来る。・・・此処には今の堀久のお爺さんが一生涯勤められた。・・・お祓いを受けたり、食事をしたり、又天候が荒れて行動が出来ぬ時は、泊って翌日の行動を待つ場合もあった。」と記しています。
●大正10年ころ
江戸時代に作られていた笹小屋について、伊東久一氏の「蔵王山今昔温泉記」は「此処を出て熊野山に向かう、此処に又、宝沢口のお室と、高湯側のお室があって、昔は双方から法印が出ていて、争いを起こし高湯分は焼かれて久しく室は空になっていた。・・・大正になって宝沢との折り合いがつき、高湯分の方に宮を遷座し、現在の熊野山頂上にお遷ししたものである。」と記されており、大正10年頃には新旧合わせて3つの小屋があったことがわかります。
●大正末から昭和15年ころ
伊東五郎氏の「蔵王五十年の歩み」によりますと「ぢいさんは晩年ここで病死してしまって、代りに宝沢から老婆一人が登って番をしていた。中でオヂ飴と言ってキナ粉(大豆の粉)を飴でかためた四角い菓子を売っていた。赤麩汁と水も売って居た。水がないので下の沢底から雪解け水を汲み上げるので値も高かったが、喉をうるほすには仕方なかった。」としています。
また、「蔵王の樹氷 (蔵王の碑建設協賛者)」には、「熊野岳と地蔵岳との鞍部は高湯から登る祓川道と、宝沢から登る道との合点にワサ小屋と呼ばれる助小屋があった。・・・助小屋は当時登山者の遭難救助の役目をして、登山者から道刈銭として5銭づつ徴集したので批判の声もあったが、宝沢の法印井上老婆の世話になったことを感謝している。小屋前の広場はいつも登山者の休み場となっていた。」とあります。
一方、安齋徹氏による「神秘の火山湖 蔵王の御釜」には「ワサ小屋は昔から名に知られている助小屋で、登山者はこの小屋のあるためにどんなに助かったことであろうか。・・・ワサ小屋には小屋守りの老婆が一人で小屋番をして居たが、小屋の前に立てられた姥の石像と間違えられそうなばんちゃんであった。遠い昔から、宝沢の法印様をつとめている家系なのだそうである。六月の暮に小屋をかけ、九月の末に小屋をたたむのであるが、其間はいつも老婆の姿を見ることが出来た。登山者の誰にも親しまれ、ワサ小屋のばんちゃんを知らない登山者は少なかったようである。」としています。
●戦中・戦後
戦時中ワサ小屋は管理者不在のため廃屋となりました。昭和26年の地図には「ワサ小屋跡」と記載されています。昭和30年代について、蜂屋眼鏡店店主の蜂屋孝司さんは「宝沢の宮司の宝崎くんの家に泊めてもらいながら、ワサ小屋跡まで通い、熊野岳下にある祠から滴り落ちてくる水を汲んで10円で売っていた。」とお話されました。
●平成23年(2011年)5月24日
「ワサ小屋跡」に説明板が作られており「その山頂に至る登山道、神社への奉拝道で最後の上り口にあたるこの場所は“ワサ小屋跡”と呼ばれ、おワサさんという老婆がここにあった山小屋の番をしており、参拝者の面倒をみていたといわれています。・・・ひと頃は参拝者に対してここで水を提供していたといいます。」と記載されています。
【小屋の名称の変遷と継承】
江戸時代に地蔵岳と熊野岳の鞍部に作られた2つの「笹小屋」は、明治末頃に「ワサ小屋」「ワシ小屋」と呼ばれるようになりました。「ワサ小屋」「ワシ小屋」の名称は大正8年頃に作られた石でできた避難小屋に継承されました。伊東五郎氏は「蔵王五十年の歩み」の中で「名はワシ小屋かワサ小屋か二通りある。昔宝沢の和七と言う者が、ここにいたから其の名をとって和七小屋と呼び、訛ってワサ小屋になったものだと言い、又熊の岳のあの断崖が、ワシ鳥が巣くう意で、其の下にある小屋だからワシ小屋となったともいっている。」としています。石小屋は戦中に廃屋、昭和26年頃にワサ小屋跡なり、平成23年には「おワサさん」の説明板が作られました。明治と戦後という50年近い2つの空白期間が小屋の名称や存在意義の継承を妨げたと考えられます。
なお、昭和13年には「和三小屋と書かれた石小屋で夏季は番人が常駐する(山と溪谷 52巻 翠の藏王越え / 岩崎京二郞)」と記されていることから、最終的な名称は「和三小屋」とも考えられます。
(注)江戸時代、「表層雪崩」は「ワシ」などとよばれていました(和泉薫・錦仁 日本雪氷学会誌 2002)。一方、山形では戦後しばらくまで「表層雪崩」を「ワシ」とよんでいました(山ことば辞典 岩科小一郎、雪のことば辞典 稲雄次)。「雪崩」を「ワシ」とよぶことについて、柳田国男は「山村語彙」の中で「東北では一般に、崖の上の雪の滑り飛ぶことである。・・・早く飛ぶ故に鷲かとの説もあるが、多分もとは地形から出た言語で、ワシユキ又はワシナデの略であらう。」としています。なお、季語として「鷲(ワシ)」は冬、「雪崩(ワシ)」は春です。
さて、熊野岳と地蔵岳の鞍部にあるワサ小屋付近は両岳からの雪崩の集積地になります。春になって参詣の道や小屋を開くには雪を除く必要があります。「ワシ」は「雪崩」と「鷲」の両者の意を表わしていた可能性も考えられます。