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奈良市内のニホンジカの血縁構造とその分布

掲載日:2024.02.21

 奈良市内のニホンジカは国の天然記念物「奈良のシカ」に登録され、奈良公園ではその人慣れした姿から、世界中から訪れる観光客に親しまれてきました。その一方で、奈良市ではシカによる農作物被害も近年問題となっています。そのため奈良市内を保護地区と管理地区、緩衝地区の3つに分け、管理地区では農林業被害対策のためのシカの捕獲事業が奈良県主導で2017年度より実施されてきました。
 しかし、これらの管理地区で捕獲されたシカはどこから来たのでしょうか? 福島大学、奈良教育大学、山形大学からなる共同研究グループは、奈良市内のシカの血縁関係をDNA解析によって調べ、管理地区のシカの由来や交配の状況を調査しました。その結果、以下の3点が明らかとなりました。

●管理地区では市外からやってきた個体が多く、一部は保護地区にも入り込んでいる可能性が高い
●緩衝地区に近い管理地区では保護地区由来の個体と市外由来の個体が混在し、交配している
●長期間の孤立や遺伝的独自性等の奈良公園集団の特徴は、現在、変化しつつある

 この研究成果が学術雑誌『Conservation Science and Practice』に正式発表されることになりましたので、ご報告いたします。
 詳しくはこちらをご覧ください。

本研究のポイント

✓ 奈良公園で見られる野生のニホンジカは多くの観光客を引き付け、重要な観光資源となっています。
✓ 一方で、奈良市ではシカによる農業被害が多発しており、奈良県は2017年度からは市内を保護地区と管理地区、緩衝地区の3エリアに分け、管理地区では農林業被害対策のためのシカの捕獲事業を進めてきました。しかし、管理地区に出没するシカがどこからきたのかは、わかっていませんでした。
✓ 本研究では、保護地区と管理地区に生息しているシカの血縁関係と血縁個体の分布をDNA解析により調査しました。
✓ その結果、保護地区内では、奈良公園独自の遺伝的特徴をもつ個体がほとんどを占めました。一方で、管理地区では奈良市外から移入した複数の系統のシカが存在すること、保護地区に由来すると思われる独自の遺伝的な特徴をもつ個体と混在していることが確認されました。
✓ 特に緩衝地区の周辺の地域では、奈良公園独自の遺伝的特徴をもつ個体と、奈良市外からやってきたシカと交配しつつあることも明らかになりました。
✓ これまでの研究で、奈良公園のシカは1000年以上孤立し、独自の遺伝的特徴を残してきたことが示されています。しかし、現在の奈良市内外におけるシカの増加と分布の拡大により、奈良公園のシカ集団の長期間の孤立や遺伝的独自性等が変化しつつある現状が示されました。

研究の背景

  人間と野生生物の軋轢には、多様な考え方を持つ利害関係者が関わっています。このような社会問題の解決には、科学的な知見をもとに議論を重ね、社会的な合意形成を目指す必要があります。奈良市では古くからニホンジカは人間によって保護されおり、都市環境の中で人慣れした野生のニホンジカを見ることができます。これらの奈良市一円のニホンジカは1957年に国の天然記念物「奈良のシカ」として登録されました。また、先行研究(Takagi et al. 2023)によって奈良公園に生息するニホンジカは、紀伊半島の他地域のシカとは遺伝的に異なる集団であり、それらの独自の遺伝的特徴は1000年以上の孤立によって形成されたことが明らかとなっています。
 その一方で、奈良市ではシカによる農業被害が多発していました。文化庁は1985年に奈良市内の農家が農業被害をめぐって提起した裁判の和解条項として、奈良市内をA~Dの4つに地区分けし、保護管理の基準を定めました。その後、2015年度に奈良県の主導により、天然記念物「奈良のシカ」の保護をさらに強化し、人との共生を図るために、和解条項の地区区分の見直しが行われ、A・B地区を「保護地区」に、D地区を「管理地区」、C地区を両地区の「緩衝地区」として位置づけました(渡辺 2017)。さらに2017年度からは管理地区であるD地区において農林業被害対策のためのシカ捕獲事業が開始されました。しかし、これらの管理地区で捕獲されたシカはどこから来たのでしょうか?本研究グループは、保護地区と管理地区に生息しているシカの血縁関係と血縁個体の分布についてDNA解析により調査を行いました。

研究手法

 本研究では、保護地区と管理地区のニホンジカのDNA解析を行いました。保護地区からは2018年にA地区に含まれる奈良公園の2地点(大仏殿前と飛火野)と、B地区に含まれる奈良教育大学構内でニホンジカの糞を30個体分採取しました。管理地区では、奈良市ニホンジカ第二種特定鳥獣管理計画によって2017年8月~2019年2月にかけて捕獲された137個体から筋肉サンプルを奈良県より提供いただきました。それらの糞もしくは筋肉サンプルからDNAを抽出し、得られたDNAから母系遺伝するミトコンドリアDNA注1のD-loop領域の部分配列を解読するとともに、両性遺伝する核SSRマーカー注214遺伝子座を使用して繰り返し配列の長さを測定しました。こうして得られた各サンプルの遺伝子型データをもとに保護地区と管理地区のニホンジカの遺伝的な特徴やその血縁関係について調べました。

研究成果

 ミトコンドリアDNAの塩基配列データを使用した系統解析の結果、奈良市内ではM1、M2、M4、S4、S5、S7、S11の7つのハプロタイプ(遺伝子型)が検出されました(表1)。保護地区ではS4のみが確認されたのに対し、管理地区では7つのハプロタイプが確認されました。これらの7つのハプロタイプはすでに先行研究(Takagi et al. 2023)により確認されており、S4は奈良公園のみで、M1、M2、M4、S5、S7、S11は京都府南部や三重県、奈良県(奈良市以外)、和歌山県など紀伊半島各地で確認されているものでした。このことは、管理地区では、奈良市外から移動してきた複数の系統のシカも生息していることを示しています。

 核SSRマーカーの遺伝子型データを使用した集団遺伝構造解析の結果では、保護地区の個体はクラスター1(赤)の要素が強く、管理地区の個体はクラスター2(緑)の要素が強い傾向がみられました(図2)。しかし管理地区の一部の個体では、保護地区の個体と同様にクラスター1の要素が強い個体が確認され、保護地区からの管理地区への個体の移動が発生していることが示唆されました。

図2. 核SSRの遺伝子型データを使用した集団構造解析の結果。集団構造解析は各個体の遺伝的組成を示す棒グラフ集合であり、各個体が2つのクラスター(遺伝的グループ)に属する確率を示している。保護地区ではクラスター1(赤)の要素が強い個体が多い一方で、管理地区ではクラスター1(赤)、2(緑)のそれぞれの要素が強い個体が多いことが分かる。の画像
図2. 核SSRの遺伝子型データを使用した集団構造解析の結果。集団構造解析は各個体の遺伝的組成を示す棒グラフ集合であり、各個体が2つのクラスター(遺伝的グループ)に属する確率を示している。保護地区ではクラスター1(赤)の要素が強い個体が多い一方で、管理地区ではクラスター1(赤)、2(緑)のそれぞれの要素が強い個体が多いことが分かる。

 上述してきたミトコンドリアDNAの系統解析と核SSRマーカーによる集団構造解析の両方の結果を照合し、その分布を示したものが図3です。保護地区内では、全個体でミトコンドリアがS4ハプロタイプであり、クラスター1の要素が強い個体が大半を占め、遺伝的に単一な集団でした。その一方で、S4ハプロタイプ以外をもつ個体が管理地区の緩衝地区近くでも捕獲されていたことがわかります。また、奈良公園の中心部から4~10km以内の地域ではミトコンドリアはS4ハプロタイプであるものの、クラスター1の要素が少ない個体も確認されました。このことは、管理地区内では保護地区由来のメスと奈良市外由来のオスの間で数世代の繁殖が繰り返し、ミトコンドリアDNAは保護地区の特徴を引き継いでいるものの核DNAは奈良市外から移動してきたシカ由来のものに入れ替わりつつあることを意味しています。

図3. 各個体の遺伝子型と、奈良公園から捕獲地点との距離関係を表した図。縦軸は核SSRに基づく集団構造解析の結果(図2)を基にしたクラスター1への帰属率を示す。数値が1に近づくほどクラスター1(赤)の要素が強いことを示している。各個体のアイコンはミトコンドリアDNAのハプロタイプを示し、先行研究(Takagi et al. 2023)によって奈良公園独自とされるハプロタイプS4はピンク、それ以外のハプロタイプ(M1、M2、M4、S5、S7、S11)は黒い三角形で表示している。横軸は各サンプルの捕獲地点と奈良公園の中心部からの距離であり、右行くほど奈良公園中心部から離れている。の画像
図3. 各個体の遺伝子型と、奈良公園から捕獲地点との距離関係を表した図。縦軸は核SSRに基づく集団構造解析の結果(図2)を基にしたクラスター1への帰属率を示す。数値が1に近づくほどクラスター1(赤)の要素が強いことを示している。各個体のアイコンはミトコンドリアDNAのハプロタイプを示し、先行研究(Takagi et al. 2023)によって奈良公園独自とされるハプロタイプS4はピンク、それ以外のハプロタイプ(M1、M2、M4、S5、S7、S11)は黒い三角形で表示している。横軸は各サンプルの捕獲地点と奈良公園の中心部からの距離であり、右行くほど奈良公園中心部から離れている。

本研究の意義

 これまでの研究で、奈良公園のシカは1000年以上孤立し、独自の遺伝的特徴を残してきたことが示されています。しかし、本研究成果によって現在の奈良市外におけるシカの増加と分布の拡大によって、奈良公園のシカ集団の長期間の孤立や遺伝的独自性等といった特徴が変化しつつあることも示されました。一連の研究成果は、周辺地域でのシカの増加によって不明瞭になっていた「奈良のシカ」について、生物学的な再定義を可能にするものでもあります。これは「我々は長期的に何を守りたいのか?」という問いについて、対象を絞った具体的な議論が可能になることを示しています。本研究成果をもとに、「奈良のシカ」を取り巻くステークホルダー(利害関係者)と議論を重ね、今後の「奈良のシカ」の保護管理や天然記念物としての在り方について社会的合意の形成を目指す必要があります。

掲載誌・論文

【タイトル】 The sacred deer conflict of management after a thousand-year history: hunting in the name of conservation or loss of their genetic identity. 
【著者】 Toshihito Takagi, Harumi Torii, Shingo Kaneko, Hidetoshi B Tamate.
【著者の所属】 高木俊人 (福島大学 共生システム理工学類 客員研究員)
        鳥居春己(元 奈良教育大学 自然環境教育センター 教授)
                     兼子伸吾(福島大学共生システム理工学類 准教授)
                     玉手英利(元 山形大学 学術研究院(理学部主担当) 教授)
【掲載誌】  Conservation Science and Practice
【公開日】  2024年2月20日付でオンライン公開
【DOI】     https://doi.org/10.1111/csp2.13084
          (クリックいただくと論文へアクセスできます 外部サイトへのリンク)
【研究費】 本研究は、奈良県による奈良市ニホンジカ第二種特定鳥獣管理計画の一環で実施されました。
 本論文は、オープンアクセスとなっていますので、インターネットを通じて(上述のDOI)どなたでも全文をご覧いただくことが可能です。

先行研究および行政資料情報

Takagi, T., Murakami, R., Takano, A., Torii, H., Kaneko, S., & Tamate, H. B. (2023). A historic religious sanctuary may have preserved ancestral genetics of Japanese sika deer (Cervus nippon). Journal of Mammalogy, 104(2), 303-315. https://doi.org/10.1093/jmammal/gyac120 (外部サイトへのリンク)

渡辺伸一. (2012). <半野生> 動物の規定と捕獲をめぐる問題史 -なぜ 「奈良のシカ」 の規定は二つあるのか?-.  http://hdl.handle.net/10105/9044 (外部サイトへのリンク)

渡辺伸一. (2017). 奈良のシカ保護管理の歩みとこれから―その社会学的検討―. 生物学史研究, 96, 35-52.  https://doi.org/10.24708/seibutsugakushi.96.0_35 (外部サイトへのリンク)

奈良県. (2022) 天然記念物「奈良のシカ」保護計画 https://www.pref.nara.jp/secure/218528/hogokeikaku-1.pdf (外部サイトへのリンク)

奈良県. (2022)奈良市ニホンジカ第二種特定鳥獣管理計画 (第2次)https://www.pref.nara.jp/secure/260584/narashinihonjika-no.2.pdf (外部サイトへのリンク)

報道機関関係者の方々へのお願い

 本研究に興味を持っていただきありがとうございます。本研究成果を取り上げる際には、読者や聞き手が研究の詳細を知り、結果の背景を正確に理解することのできるよう原典の論文を引用していただきますようお願い致します。特にインターネット上のWEB記事やSNS(XやFacebook、YouTube等)等での情報発信の際には、上述の論文へのリンク(DOI)を記載ください。また、このお願いにつきまして2023年2月9日に生物科学学会連合から提出されました「研究成果をメディアへ報道する際のお願い」( https://seikaren.org/wp/wp-content/uploads/2023/02/to-media.pdf 外部サイトへのリンク)も併せてご覧いただければ幸いです。

 また、取材した研究者のコメントとして記述する内容については、事前に研究者本人への確認をお願い致します。研究者の言葉として、不正確あるいは誤解を招く表現が報道されてしまうことは研究者や所属機関、報道機関、情報の受け手のすべてにとって不利益となります。お手数をおかけしますが、ご理解のほど、どうぞよろしくお願い致します。

用語解説

注1)ミトコンドリア DNA
細胞内に多数存在する細胞内小器、ミトコンドリアの中に含まれるDNA。母親からのみ子に遺伝情報が伝達(母性遺伝)され、一つの細胞内に多数存在し、コピー数が多いため、PCR 増幅による遺伝情報取得が核 DNA と比較して容易である。ただし、遺伝子の情報量は核 DNA よりも少ない。

注2)核SSR
核ゲノム上にみられる、1~数塩基の短い配列の繰り返し数の多型(例:ATATATATATなど)を評価する遺伝マーカー。核DNA上に存在するため、両親から子に受け継がれる両性遺伝という遺伝形質を持つ。マイクロサテライトDNAとも呼ばれる。多型性が高く遺伝子型で個体や個人を特定できることから、集団遺伝学、分子生態学、親子判定や科学捜査などにも用いられる。

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