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伊達政宗はいつ家督を相続したのか ~最上義光宛伊達政宗文書を通じて~

掲載日:2023.07.06

本件のポイント

  • 戦国大名伊達政宗研究は大いに盛んであるが、まだまだ謎に包まれている。そこで、今回、右写真の天正12(1584)年某月12日付の最上義光宛伊達政宗書状を読み直した。
  • その政宗書状の内容から、それは天正12年10月12日付のものと確定した。
  • それにより、(1)政宗の家督継承は10月12日には決定していたこと、(2)天正9年の政宗初陣とされる小斎の戦いに最上義光が加勢していたことなどがわかる。それゆえ、伊達政宗・最上義光関係の研究が発展することが期待される。

概要

 都市・地域学研究ユニット(都市研と略す)は、研究員である山大名誉教授の松尾剛次氏を中心に、山形偉人再発見プロジェクトの一環として、最上義光研究を行ってきた。その過程で、最近、兵庫県立博物館所蔵の天正121584)年某月12日付の最上義光宛伊達政宗書状の読みなおしを行った。当該書状には、年付けはなく、月付けも消えているが、内容から従来は、天正12612日付の書状と考えられてきた。というのも、手紙の内容が、天正1267日に白鳥長久が殺された事件を伝えていることと、「未拙子代ニ無之候」(まだ家督を継いでいない)とあるように、伊達政宗が家督継承以前の文書と考えられたことによる。また、花押も家督継承以前のものである。しかし、文末には、天童氏討伐が終わった(1010日)らしいことが書かれていることや、政宗が軍事指揮権(家督の専決事項)を継承したことを伝えていることなどから、天正121012日付けの文書と考えられる。とすれば、政宗が家督継承したばかりの文書となる。政宗は、家督継承を伝えられ、すぐに伯父の義光に伝えたのであろう。それゆえ、花押も継承前のものが使われたと考えられる。政宗の家督継承は、天正12106日から23日までのいつかとされてきたが、12日には決定していたことがわかる。また、政宗の初陣とされる小斎(宮城県伊具郡丸森町)の戦いに、義光が加勢していたことがわかり、伊達政宗・最上義光の関係が良好であったことが知られる。政宗の伝記研究に新たな光を当てることができたばかりか、伊達政宗・最上義光の関係研究にも裨益するであろう。

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用語解説

1.山形偉人再発見プロジェクト:都市研は2008年以来、最上義光、安達峰一郎といった偉人でありながらも光が当てられて来なかった人物に注目した研究を行っている。

2.白鳥長久:長久(?~1584)は、戦国時代の出羽武将で、谷地城主であった。織田信長を騙して出羽守に任じられたが、義光の申し出により、それが偽りであったことがわかった。そのため、信長は白鳥殺害を義光に命じ、天正12年6月7日に義光によって殺害された。

3. 天童氏:最上氏の一族で天童を治めた。天童頼久は最上義光と戦ったが、天正12年10月10日に宮城の国分氏を頼って逃亡した。

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